敬虔に生きる根拠(動機)テトス2章11-15節

 

 実に、すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのです(テトス2章11節)。

 道德や倫理は人々に「~しなさい」や「・・・してはいけない」と勧告します。しかし、それらを知っていることと、実践することは別の問題です。例えば学生は、親から言われなくても勉強しなければならない、と思っているかもしれません。しかし、勉強する動機や根拠がないなら、「しなさい」と叱咤激励されただけでは「はい分かりました」、ということにはならないでしょう。同様のことが倫理や道德についても言えるのではないでしょうか。

 神さまが人間に与えておられる「良心」は、ある程度善を奨励し、罪(悪)を抑制する働きを担っているでしょう。また、処罰を受けなければならない、さらには人から悪く思われたくないという動機も悪の抑止になるかもしれません。しかし、人の評判を気にするだけなら、隠れて悪を行う誘惑に陥り「まさかあの人があんなことをするとは」ということになりかねません。

 

 パウロは2-10節において、キリスト者たちに敬虔に生きるとはどのようなことなのかを示しています。そして、11-14節には敬虔に生きる根拠(動機)を示しています。 

   

 さて、キリスト者の行動の根拠は何でしょうか。それは「神の恵み」です。「神の恵み」とは、キリストによる救いのみわざを指しています(参 Ⅱテモテ1:9-10)。その恵みが「現れた」とは、キリストがこの地上に来臨されたこと(初臨)によって実現したことを意味しています。キリストは人となってこの地上に来てくださり、十字架においてご自身を犠牲にしてくださいました。神はキリストの救いのみわざを信じる者に、罪の赦しという恵みを備えてくださいました。キリスト者の行動の根拠は、救いの恵みを得るためではなく、信じる者に無償で与えられた救いの恵みに対する応答として出てくるものなのです。

 12節には、その恵みがどのような生き方を教えるかを明らかにしています。それは、否定的には「不敬虔とこの世の欲を捨て」と説明され、積極的には「慎み深く、正しく、敬虔に生活」(自分自身、隣人、神との関係を表わしている)すると説明されています。つまり、恵みはこれまでの未信者としての古い生き方を捨て、新しい生き方へと導くということです(参 コロサイ3:9-10)。

 13節には、キリストの神性がはっきりと宣言され、恵みがキリストの「栄光ある現れ(共同訳「栄光の現れ」)を待ち望むように」させることを明らかにしています。ここに出てくる名詞の「現れ」(エピファネイア 11節の「現れた」は動詞)とは、キリストの再臨のことを指しています。キリストの再臨がいつかは私たちには明らかにされていませんが、その時はキリスト者たちの救いは完成し(ヘブル9:28)、キリストに似た者となるという希望が実現することになります(Ⅰヨハネ3:2) 。

 キリスト者たちは、二つの「現れ」(キリストの「初臨」と「再臨」)の間に生きています。その間にあって、今を敬虔に生きるためには、救いをもたらした「神の恵み」という過去をふり返りながら、将来に約束されている「栄光ある現れ」という望みを見据えることが必要です。  


 前にも記したように霊的成長は時間を要する過程です。しかし、キリスト者になった後も全くキリスト者になる前の古い生き方を続けている人がいるとするなら、「神の恵み」が正しく理解されていないからではないでしょうか。何をなすべきかの前に、まずキリストが何をなしてくださったのかを覚えましょう。


                     このメッセージは2021.11.14のものです。