四つのたとえ マルコ4章21-34節

 

 マルコはここで主が語られた四つのたとえを取り上げています。三つ目の「成長する種のたとえ」(26-29節)はマルコ独自のものであり、他のたとえは違う文脈などでも用いられています。では、四つのたとえを順に見ていくことにしましょう。

 一つ目は「明かりのたとえ」です(21-23節)です。次のたとえとの間には、「聞く」ことを促す言葉で繋がっています(23,24節)。ですから、「種まきのたとえ」から「聞く」というテーマが続いていることが分かります(3,9節)。

 「明かり」は燭台の上において部屋を照らすために使われます。わざわざ「升」(穀物を測る容器)の下に置いたり、「寝台」の下に置くことはありません。「明かり」は「神の国の奥義」(11節 キリストの来臨によって神の支配が到来していること)を意味し、たとえで語るのは、神の国の到来という真理を隠すためではなく明らかにするためであると言おうとしているのでしょう。そして、「神の国」の真理は、今は隠されているところがあったとしても、やがて明らかにされる時が来ることを示しているのです。

 二つ目のたとえは「秤のたとえ」です(24,25節)。24,25節には「与えられ」「増し加えられます」「取り上げられてしまう」という受動態の言葉があります。神によって、そうなるということです。真理は心を開いて聞こうとする者には開かれ、さらに深い真理を知ることができるようになるということです。しかし、心を閉ざして聞こうとしない者は持っているものまで失ってしまうということです。約束と警告があり、どのように聞くかが大切であることがわかります。

 三つ目は「成長する種のたとえ」(26-29節)であり、マルコ独自のものです。次の「からし種のたとえ」とともに「神の国」に関するたとえであり、蒔かれた種の成長が描写されています。両者の強調点の違いは、成長の神秘性と成長の驚異性にあります。

 成長する種の描写には、人の世話については一切触れられていません。それは神の国の神秘的な成長は人の理解を超えるものであり、神の御手によるものであることを強調したいからです。種のうちには成長する神秘的な力があるように、神の御手によって神の国が実現するなら、私たちは信仰を持って待つことができるということなのです。

 四っ目は、「からし種のたとえ」です(30-32節)。「からし種」は厳密には「地の上のどんな種をよりも小さい」わけではありません。1世紀のパレスチナの人々にとっての小さいものの代名詞が「からし種」であったということです。小さなものがやがては大きく成長し、鳥が巣を作るほどのものになるというのは驚くべきことです。神の国が最初は小さく目立たないものであったとしてもやがては大きくなることを保証しているのです。

 30-34節には、たとえを用いて教えることの結論が記されています。主は弟子たちには、個別にその意味を語られ、彼らを指導されたことが明らかにされています。弟子たちは悟るに鈍い者たちであったと言えますが、主は彼らを将来の派遣のために育てておられたのです。そして、それが今日の神の国の宣教拡大へと繋がっているのです。


          このメッセージは2024.1.28のものです。