パリサイ人と取税人の祈り ルカ18章9-14節



 主イエスが語られた「パリサイ人と取税人の祈りのたとえ」をみていきましょう。9節には、たとえが語られている対象が「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに」と、明らかにされています。そして、14節には、たとえの結論が「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです」とあります。ですから、このたとえが教えようとしていることは、高慢な者を戒め謙遜であることを勧めるものであることがわかります(参 14:11,ヤコブ4:16,Ⅰペテロ5:5)。

 主は対照的な二人、「パリサイ人」と「取税人」を登場させ、宮で祈らせています。「パリサイ人」は、民衆に律法を教えていた者たちで、自分たちは律法を守っているという自負を持っていました。律法学者たちの多くがパリサイ人に属し、一般的には、民衆から敬意を払われていました。しかし、その彼らを主は「人々の前で自分を正しいとする」(16:15)者であり、「その内側は強欲と邪悪で満ちています」(11:39)、「正義と神への愛をおろそかにしている」(11:42)と、辛辣に批判しています。

 一方「取税人」は、敵であるローマの手先となって同胞から税金を徴収していた人たちであり、決められた以上のものを取り立てて(参 3:12-13)、私腹を肥やしていたので、同胞から嫌われていました。

 二人は社会的な面だけでなく、宮での態度や祈りにおいても対照的です。パリサイ人は自分の正しさを誇り、神の前に堂々と出ることができると考えています。彼が自分を正しいと考える根拠は何でしょうか。まず、律法をしっかり守っているということです。もう一つは律法が要求している以上のこと(「断食」や「十分の一」において)をしているという自負です。彼の祈りは、「神よ。・・・感謝します」と言っていますが、他者と自分を比べて、自己満足に陥っていて、その心は神にしっかり向かっていないことがわかります。

 一方、取税人の態度から分かることは、自分は神の前に出るにふさわしくないと考えていて、(「遠く離れ」、「目を天に向けようともせず」)、強い悔悟や悲しみの思いをいだいているということです(23:48「胸を叩たたく」)。彼は「打たれ、砕かれた心」(詩篇51:17)をもっていることがわかります。彼は、罪人である自分にとって何も誇るべきところはなく、神にあわれみを求めるしかないと考えているのです。

 主は二人の祈りを描写したあと、神に受け入れられたのは、パリサイ人ではなく、取税人だと語られました。聞いた人々は衝撃を受けたかもしれません。神の評価は必ずしも人の評価と一致するものではないのです。

 主はパリサイ人ではなく、取税人が「義と認めれ」たと言われました(14節)。「義認」(罪人を正しいとする神の法的宣言)とは、パウロの手紙において繰り返し「信仰によって」と教えられている教理です(参 ローマ3:28,5:1,ガラテヤ2:16)。主の宣言には、その教理の先取りがみられると言っていいかもしれません。


 義認とは、その人を実質的に義人とすることではありません(信じた後も、私たちは罪の性質をもち、実際に罪を犯している)。神が「罪人をご自身との正しい関係においてくださること」と言い換えたらいいでしょう。聖であり義なる神が、なぜ罪人をご自身との正しい関係においてくださるのでしょうか。それは、信じる者にキリストの義が転嫁されるからです(参 ピリピ3:9)。クリスチャン生活は、神との正しい関係から始まります。そして、聖霊の働きによってキリストに似た者へと変えられていく過程である「聖化」へと進むのです。

 主は高慢を戒められました。高慢は不正や姦淫のような罪と違って、自覚するのが難しい罪の一つです。神のみことばとしっかり向き合い、正しい自己認識を持ち、悔い改めをもって歩んでいきましょう。


               このメッセージは2024.6.16(父の日)のメッセージです。