苦しみを耐え忍ぶために Ⅱテモテ2章8-13節

 パウロはテモテに委ねようとしている働きが苦しみを伴うものであることを三つの比喩(兵士、競技者、農夫)を用いて説明しました。そして、その苦しみを「耐え忍ぶ」(10,12節)ために、三つのことを語っています。

 一つ目は、キリストに心を留めるということです。パウロは「イエス・キリストを心に留めていなさい」(8節)と命じ、心に留めるべきお方を、「ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった方です」と説明しています。原文の語順では、復活のことが先で、ダビデの子孫として誕生したことが後となっています。キリストが死を勝利してよみがえられ、今も生きておられる方であることを強調したかったのかもしれません。

 一方、ダビデの子孫からの誕生は、キリストの人間性(人となられたこと)よりも、よみがえられた方はダビデの王権(ルカ1:32,33)をもって支配するお方であることを示そうとしているのでしょう。いずれにしても、パウロは苦しみを乗り越える力を与える方がどのようなお方であるか、心に留めるように促しているのです(参 Ⅰテモテ1:12,ピリピ4:13)。

 二つ目は、苦しみの目的を理解するということです。戦時中のこと、捕虜に穴を掘らせて、その穴をまた埋めさせるという労働を繰り返させたということを聞いたことがあります。自分の労苦に意味や価値がないとするなら耐えることは難しいのではないでしょうか。

 パウロは福音のために苦しみを耐え忍んでいました。その苦しみをとおして、「選ばれた人たち」(選ばれているがまだ信じていない人たちを指す)が永遠の栄光を伴う救いにあずかるようになることを知っていたからです。

 パウロは宣教の働きによって(Ⅰコリント1:21)、神が望んでおられる人の救い(Ⅰテモテ2:4)が実現するという価値をしっかりと見据えていたので、「耐え忍びます」と告白することができたのです。

 三つ目は、苦しみの先にあるものを見据えるということです。11-13節の四行の詩は、キリスト教初期の賛美歌の一部ではないかと言われますが、それをパウロは信頼できることばとして引用しています。三行目までは同じ構文であることが分かります。条件文ではじまり(もし・・・なら)、ある行動の結果(・・・になる)を示しています。一、二行と三、四行とは対の関係になっていると思われます。

 一行目は、同じような表現がローマ人への手紙6章8節があり、バプテスマの霊的な意味を告白していると考えられます(参 ローマ6:3-5)。

 二行目は、耐え忍ぶ者がキリストと共に治める者となるという驚くべき約束がなされています(参Ⅰコリント6:2)

 三行目は、キリストを否む者への警告です。そのような警告は、主ご自身によっても語られています(マタイ10:33)。

 四行目は、警告のことばと理解すべきか、慰めのことばと理解すべきか、見解が分れる箇所です(それらの見解は、後にまとめる説教集ご覧下さい)。

 苦しみという暗く長いトンネルの中にいると、希望を見出せなくなってしまいます。パウロは「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るにたりないと私は考えます」(ローマ8:18)と述べています。キリストが苦しみ(死)を通して栄光に入られたように(ルカ24:26)、私たちの苦しみの先にも希望があることを見失わないようにしましょう。


                       このメッセージは2021.7.11のものです。