困難な時代 Ⅱテモテ3章1-9節

 パウロは2章に引き続いてにせ教師の問題を取り上げています。2章ではにせ教師の「俗悪な無駄話」や「愚かで無知な議論」を避けるように命じていましたが、3章では主ににせ教師たちのことを念頭において、関わりを持たないように命じ(5節「こういう人たちを避けなさい」 参 Ⅰコリント5:9-11)、彼らの実体を暴いています(5-9節、8節の「失格者」は2:15の「務めにふさわしいと認められる人」の反対語)。

 パウロは「困難な時代がやって来ることを、承知していなさい」とテモテに注意を喚起しています。困難な時代とは、いつのことなのでしょうか。「終わりの日には」とあります。「終わりの日」というと、世の終わりの時で、将来についての予測をしているように思われるかもしれませんが、新約聖書では主イエスの来臨から再臨までの期間を指す表現です(参 使徒2:17、ヤコブ5:3,ヘブル1:2)。ですから、テモテがエペソの教会を牧会していた時を含むものであり、私たちも、その「終わりの日」を生きているということです。

 なぜ「困難な時代」なのでしょうか。パウロはその時代の特徴を十九挙げて説明しています(ローマ1:29-31のリストには、同じことばがいくつか見られる)。その十九のリストから、一つの大きな特徴を見ることができます。それは人々の愛がどこに向かっているか、ということです。一番目と二番目と十八番目のリストを見ると、人々の愛が「神」にではなく、「自分」や「金銭」(参 Ⅰテモテ6:10)や「快楽」に向かっていることが分かります。三番目以降のリストは、誤った愛の必然的な特徴であるということが言えるでしょう。そこには人との関係を築き上げていく、「御霊の実」(ガラテヤ5:22,23)を見ることができません。逆に、人との関係をそこなう自己中心性が見られるばかりです。主は世の終わりの前兆として「多くの人の愛が冷え」(マタイ24:12)ることを指摘されていますが、時代はそこに向かっていることを覚えさせられます。

 悪しき罪人の特徴を見る時に、そこに希望があるのだろうか、と悲観的になるかもしれません。しかし、「福音」には希望があります。なぜなら、福音には人の心を変える力があり、神の愛は自己中心的な者を隣人を愛する者へと変えることができるからです。罪の醜さや恐ろしさを理解し、罪人を救うために神がキリストをとおしてどのような愛をあらわしてくださったかを認め、それを信じるとき人は新生を経験し、内住の御霊は人を内側から変えていくために働かれます。救いの恵みをしっかりと受けとめ、神の愛に応答しようとするなら、パウロが挙げている十九番目の見かけは信仰深く見せても(参 イザヤ1:24-17,マタイ23:25)、内実がないという状態のままでいることはできないでしょう(5節)。

 主イエスは律法の専門家から「律法の中でどの戒めが一番重要ですか」と尋ねられた時、神を愛することと、隣人を愛することが重要であると答えられました(マタイ22:35-39)。「終わりの日」の「困難な時代」を生きる私たちの愛は、今どこに向かっているのでしょうか。

                      このメッセージは2021.7.25のものです。