教会 真理の柱と土台 Ⅰテモテ3章14-16節
神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです(Ⅰテモテ3章15節)。
パウロは教会のリーダーたちである「監督」や「執事」たちの資質を上げた後、困難な牧会の働きに携わっているテモテに教会とは何かという本質的なことを語っています。三つのことばに注目しながら、教会とは何かをみていきましょう。
まず、教会は「神の家」です。「家」(オイコス)と訳されていることばは、4,5,12節では「家庭」と訳されています。「家庭」は「家族」とも言い換えていいでしょう。教会を構成する人々は、年齢、性別、人種、社会的地位などに関係なく実にさまざまです。キリストを信じて神から生まれた者たちは兄弟姉妹であり、愛すべき「神の家族」(エペソ2:19)です。
次に、教会は「生ける神の教会」です。「神の」ということばから、教会がどなたのものであるかが分かります。「ご自身の血をもって買い取られた」方のものです(使徒20:28)。時に「~先生の教会」という言い方をすることがありますが、正確には「~先生が牧会する神の教会」です。また「生ける神の」ということばからは、神はどこにおられてどのように働いておられるかが分かります。神はいのちのない偶像とは違って(参 Ⅰテサロニケ1:9)、人々にいのちを与える方であり、教会のうちに住まわれ(Ⅱコリント6:16「生ける神の宮」)、教会に真の活力を与えて導いてくださる方です。
次に教会は「真理の柱と土台」です。パウロは真理と教会の関係を建物のイメージを使って説明しています。普通私たちは、真理が教会の土台であると考えているのではないでしょうか(参 エペソ2:20-)。教会はみことばというキリスト教信仰の真理を土台として建て上げられ、存在しています。ですから、真理という土台なくして教会の存在はありえません。しかし、ここでパウロはそれを逆にして、教会は真理の土台だと言っているのです。真理が土台でありながら、同時に教会が土台であることが成り立つのでしょうか。ある人たちは、パウロは矛盾していると批判するかもしれません。しかし、彼の論理は一貫していて、二つの比喩は見事に補い合っているのです。
パウロが使っている「柱」ということばから見ていきましょう。「柱」はもちろん屋根を支えるものですが、同時に柱は建物の構造を高くし、遠くからも見えるように、その存在を知らせるものです。そのことは、教会が真理を高く掲げ、それを知らせるという使命を持っていることを示唆しています。つまり、教会はこの世に対して真理を証しする柱であるということです。
次に「土台」ですが、これは建物をしっかり支え、ゆるがないものにするためのものです。エペソの教会には、にせ教師の問題があり、それによって教会は混乱していました。教会が土台であるとは、教会は誤った教えから真理を擁護し、それをゆるがないものとする責任を負っているということです。神はご自身の真理を教会に依存しなくても守ることができるはずだ、という人がいるかも知れません。しかし、神はご自身の真理を教会に委ねておられ、それを次の世代へと継承することを願っておられるのです(参 Ⅱテモテ2:2)。
教会は真理がなければ存在しえません。真理を必要としています。真理は教会の使命に依存していて、教会を必要としています。両者は相手を必要とし、両者は切り離すことができないものなのです。
私たちは教会を、人間の知恵ではなく、健全なみことばの真理を土台として建て上げなければなりません。その一方で、神から委ねられた真理を異端などから擁護し、この世に対して宣教の使命を見失わないようにしなければならないのです。
このメッセージは2021.3.7のものです。