復活を信じるわけ(理由)

 

 あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい(Ⅰペテロ3章15節)。

 2018年8月、メキシコ中部の小さな村で無実の二人が焼き殺されるという痛ましい事件が起こりました。メキシコでは年間推計で5万人が誘拐されているとされており、その二人を子どもの誘拐犯だとするフェイクニュースが拡散し、それを信じた市民によって殺されたのです。氾濫する情報の中から、何が事実で何がうそかを見分ける事が困難になっている今日、私たちが信じていることが本当に信じる根拠があることなのか、立ち止まって考えることの大切さを覚えさせられます。

 日曜学校のある教師が生徒たちに「信仰とは何ですか」と尋ねました。すると「本当ではないと知っていることを信じることです」と、答えが返ってきました。多くの人にとって宗教的な真理とは、事実ではなくても信じることによって真理としていること、と理解されているかもしれません。もしキリスト教が事実ではないことを信じることによって真理としているだけなら、それを信じる理由(根拠)はないと言えるでしょう。

 キリスト教にとって最も重要な出来事は、キリストの死と復活です(Ⅰコリント15:1- 「福音」グッド・ニュース)。キリストが歴史的に十字架に死なれたことは多くの人が認めるでしょうが、復活については多くの人は信じないことでしょう。当然の反応です(参 使徒17:12)。普通死者はよみがえらないからです。にもかかわらずクリスチャンたちは復活を信じていると公言します。それには確かな理由があってのことなのでしょうか。

 まず、弟子たちの復活の主にお会いしたという証言や彼らの変化をあげることができるでしょう。彼らは前もって主から復活の予告を受けていましたが、それを期待も、信じてもいませんでした。主の死という事実は彼らを打ちのめし、希望を奪い去るに十分だったからです。しかし、その彼らは復活を大胆に伝えていく者となっていきました。彼らはローマ帝国下の各地域に命がけで伝えに行きました。彼らがキリストのためにどれだけの苦しみを受けなければならなかったかを考えるとき、うそだとわかっていることのためにそうしたとはとても考えられません。むしろ彼らが復活された主と実際にお会いしたと考えた方が自然ですし、納得がいきます。復活は弟子たちによって作り上げられた神話や伝説ではありません。なぜなら、それらを作り上げるにはあまりにも時間がなかったからです。彼らの宣教によって各地に教会が誕生し、形成されていきました。教会は連綿と各時代を経て今日まで存続しています。教会の存在も復活の事実抜きでは考えられないことです。

 今日のキリスト者たちは、「新約聖書」を通して復活を信じていますが、最初のキリスト者となった弟子たちにとって復活は直面させられた事実です。それが新約聖書を書く動機となりました。新約聖書はキリストの福音を伝え、キリスト者たちの生活を指導するために書かれたものです。もし復活がなかったなら、今日私たちが手にしている新約聖書も存在していなかったでしょう。

 信じる理由のないこと(フェイク・ニュース)を信じることは愚かであり、むなしいばかりでなく(Ⅰコリント15:14-)、それは悲惨な結果をもたらします。しかし、私たちは主イエスの復活を信じる確かな理由を持っているのです。

              このイースター・メッセージは2020.4.12のものです。