みことばを通して目を開かれる主 ルカ24章13-35節

 

 それからイエスは、モーセやすべての預言者から始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた(ルカ24章27節)。


 復活された主イエスは、ご自身を何度も弟子たちに現わされましたが(使徒1:3、Ⅰコリント15:3-)、ルカのみが記している、エマオの村に向かう二人の弟子にご自身を現わされたケースから見ていきましょう。

 主が復活された「週の初めの日」(1節 日曜日)の午後、クレオパともう一人の弟子が、エルサレムから約11キロ離れたエマオの村へと向かっていました。彼らがこの数日間のうちに起こったことについて歩きながら論じ合っていると、そこに割り込んで来る一人の旅人がいました。その人こそ、彼らが話題にしておられたお方でしたが、彼らの「目はさえぎられていて」、誰であるかは分かりませんでした。

 その旅人が会話の内容を尋ねた時、クレオパは自分たちがメシアとして仰いでいた「ナザレ人イエス様」という方が同胞の宗教指導者たちによって無残にも殺され、すでに三日目になること、また早朝、墓に行った女たちの報告によると、墓には遺体がなく、御使いたちが主はよみがえられて「生きておられる」と告知したこと、また使徒たちの何人かが確認のために墓に行ったところ、女たちの証言どおりであったことを語りました。彼の言葉からは深い失望や困惑といったものを読み取ることができます。

 空の墓の事実、御使いの告知だけでは復活の事実を信じることができない彼らに対して、主は直接“わたしはこの通りよみがえって、ここにいるではないか”、と示すことができたはずですが、そうはされませんでした。主は旧約聖書を解き明かされ、メシアは必ず受難を通して栄光(復活)に入るはずではなかったか、ということを示されました。

 日暮れが近づき、旅人が先に行きそうなので二人は引きとめて、その方と共に食卓に着きました。その方が「パンを裂かれたとき」(35節)彼らの「目が開かれ」、主であることが分かりました。その後彼らは、エルサレムへと取って返して、自分たちが体験した出来事を仲間の弟子たちに証ししました。

 主はご自身を現わされたあと、すぐにクレオパたちのもとを去っていかれましたが、彼らの主の復活の事実についての確信は揺るぎないものとなっていました。彼らの確信がしっかりと主が解き明かされた聖書のことばに結びつけられていたからです。クレオパたちが当初主であることが分からなかったのは、単に彼らの失望や落胆のためというよりも、彼らの確信を聖書に結びつけようとする主の意図だったように思われます。

 パイロットになる人たちは計器に頼って飛行する訓練を受けると聞きます。悪天候の中を自分の感覚だけにたよって飛行することは危険だからです。私たちの人生にも視界が良好ではない中を飛び続けなければならないときがあるでしょう。そのような時に頼りとなる計器とは聖書のことばです(参 マタイ4:4,Ⅰペテロ1:24,25)。

 落胆や困惑させられるような人生のさまざまな出来事を、変わらないみことばに照らして見る必要があります。期待が打ち砕かれるとき、そこに希望はないように思えます。しかし、神は苦しみを通して良いものを備えてくださっているのです(参 ローマ8:28,Ⅰコリント10:13)。 二人の弟子は、主のみことばの解き明かしを通して目が開かれたように、主がわたしたちの目も開いてくださいますように(参 Ⅱ列王6:17)。


                このイースター・メッセージは2021.4.4 のものです。