シリア・フェニキアの女性の信仰 マルコ7章24-37節

 

 主イエスが「ツロの地方」(現レバノン、異邦人の地)に入ると、さっそく主の噂を聞きつけてやって来た一人の女性がいました(参 3:8)。彼女は、悪霊によって苦しむ幼い娘を持つ、「シリア・フェニキア生まれ」の女性でした。主は彼女に対して「あなたの信仰は立派です」(マタイ15:28)と賞賛しておられます。主が賞賛された彼女の信仰とは、どのような点にみることができるのでしょうか。

 第一に、主ならおできになるという信仰をもってやって来たということです。彼女の娘がどれぐらいの期間苦しんでいたかはわかりませんが、主なら娘を悪霊による苦しみから解放できるという望みをもってやって来たのです。

 第二に、諦めることなく、粘り強く主に懇願し続けているということです。並行記事のマタイの福音書では、娘の苦しみを訴え、「叫び続け」ている彼女の姿があります(15:22)。主はその彼女に対して最初は沈黙しておられます。次に口を開かれると「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません」(15:24)と、異邦人は対象外ですと言わんばかりです。主の彼女に対する対応は他の人々とは違ってずいぶん冷たいようにさえ見えます。しかし、彼女は主が語られたたとえ話に登場する「やもめ」のように、粘り強く願い続けているのです(ルカ18:1-)。

 私たちは自分の願いがなかなか答えられないと、落胆して祈るのを諦めてしまうところがあるのではないでしょうか。私自身もこれまでのクリスチャン生活を振り返るときに、いつの間にか、祈らなくなってしまった課題が多々あったことを認めざるを得ません。御心ではないと確信したからではなく不信仰のゆえに諦めてしまったのです。祈りの答えの遅延は、私たちの願う動機や強さを明らかにします。自分の願いが思い通りにならない中にあって、粘り強く祈り続けるためには信仰が必要です。

 第三に、主のことばを謙遜に受け入れ、そこにあわれみの余地があることをしっかり読みとっているということです。その根底には、主が異邦人に対してもあわれみ深いお方であるとの信仰を持っていることがわかります。彼女は主の「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」(27節)とのことばに対して「主よ。食卓の下の小犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます」(28節)と機知に富んだことばで返しています。「子どもたち」とはイスラエルの民、「小犬」とは彼女のことです。主が彼女に対して使った「小犬」(キュナリオン)に侮蔑的な意味があるかないかについては議論が分かれますが(ユダヤ人は異邦人を「犬」と呼んで軽蔑していた)、そこには侮蔑的な意味が含まれていたと思われます(主ご自身が彼女に差別的な意識をもっていたとは思わないが)。彼女は「小犬」呼ばわりされてもそれを謙遜に受け入れ、主の「まず」ということばに、確かに優先順位はユダヤ人にあるとしても、神のあわれみが異邦人を除外するものではないことをしっかりと読み取っていました。

 主は彼女に「その言葉によって」(29節の直訳)と言って、彼女を帰途に着かせています。主は郷里ナザレでは、人々の「不信仰のゆえに、そこでは多くの奇跡をなさ」(マタイ13:58)ることはありませんでした。しかし、ここでは彼女の信仰に対して力あるわざを行なっておられます。信仰がなくては神に喜ばれることはありません(参 ヘブル11:6)。信仰によって子どもとされている立場を覚えて求め続けましょう。父が私たちの必要に対して拒まれる方ではないことに信頼しましょう(参 ピリピ4:19)。

            このメッセージは2024.3.24のものです。