主の奇跡にみる三つの対照 マルコ4章35節ー5章20節



 主イエスはガリラヤ湖の嵐を静められ(4:35-41)、悪霊につかれた人から悪霊を追い出しておられます(5:1-20)。ここには三つのコントラスト(対照)を見出すことができます。

 一つ目は、荒れ狂う湖における主と弟子たちに見ることができます。主は、波によって舟が大きく揺れ舟に水が入るような状況の中でも「眠っておられ」ました(38節)。単に疲れていたからではなく、父なる神の御手の中にあって安心しておられたのです。そのことは目をさましてから、慌てふためくことなく平然と「風を叱りつけ、湖に『黙れ、静まれ』」と命じ、自然を従わせておられる姿からもわかります。一方、弟子たちは身の危険を感じて主に助けを求めるだけでなく(参 マタイ8:25)、「私たちが死んでも、かまわないのですか」と主に対して非難めいた言葉を口にしています。主は嵐を静められ、弟子たちに「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか」と、彼らの信仰の欠如を叱責されました。これまでの歩みの中で主の神的権威を何度も弟子たちは見てきていたからです。

 弟子たちは主の「向こう岸へ渡ろう」(35節)との声に従ったにもかかわらず、身に危険を感じるような嵐に直面しています。私たちも主に従う中でさまざまな人生の嵐(迫害、病気、失業、人間関係の破綻など)に直面することでしょう(参 ヨハネ16:33)。そのような時に、私たちは弟子たちのように、主が自分のことを気にかけておられないように感じる時があるかもしれません。しかし、主は弟子たちにだけではなく、私たちにもご自身を信頼することを期待しておられるのです(参 ヘブル13:5)。

 二つ目は、「レギオンを宿していた人」(15節)の主に出会う前と後に見出すことができます。悪霊につかれた人は、人が住まない墓場を住まいとし、おとなしくさせようとした人たちがつけた足かせや鎖を何度も破壊し、叫び声をあげ、自傷行為を続けていました(5:3-5)。大勢の悪霊の影響下にあって人間性が大きく損なわれていたのです。その彼が、悪霊を従わせる権威を持った主との出会いをとおして「服を着て、正気に返って座って」いるという激変ぶりです。彼は人間性を取り戻し、新しい人生の第一歩を踏み出すことができるようになっているのです。私たちは悪霊につかれた状態ではなかったでしょうが、主との出会いをとおして罪の奴隷から解放され、神の子どもたちの一人にされていることは何と大きな恵みでしょうか。

 三つ目は、対岸に住む人々と悪霊から解放された人との主に対する態度に見ることができます。悪霊につかれた人が正気になっている姿に恐れを抱き、対岸の人々は主に退去を求めました。主がいたらこれまでの平穏な生活を乱されてしまうと考えたのかもしれません。一方、悪霊から解放された人は弟子の一人として主のお供をしたいと願っています。絶望的な状況から救われた喜びと救ってくださった主への感謝から、主に仕えていきたいと思ったのでしょう。しかし、主はそれを許可されず、家族のもとへと帰って、「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい」と命じられ、彼は主のことばに従いました(20節)。

 救いを経験したすべてのキリスト者たちは、主を証しする使命を負っています。それぞれは「イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったか」の固有の物語(証し)を持っているからです。レギオンを宿していた人のような劇的なものではないかもしれませんが、私たちも主を証ししていきましょう(参 Ⅱテモテ1:7)


           このメッセージは2024.2.4のものです。