主は私の羊飼い 詩篇23編1-4節

 詩篇の中でもっとも知られ親しまれているのは23篇でしょう。それはなぜでしょうか。一つは短いということではないでしょうか。6節しかなく、暗証しやすい長さです。二つ目は美しい描写と豊かな内容を持っているからでしょう。三つ目は、神さまとの個人的かつ親密な関係が強い確信をもって告白されているからでしょう。

 稲作を中心としてきた日本人には、羊飼いや羊はあまり身近な存在ではなく、羊にとって羊飼いがどのような存在なのか、よく分からない点があると思います。しかし、旧約聖書を読むときに、族長たち、モーセ、ダビデなどは羊飼いであったことがわかります。神の民である彼らが自分たちの神を羊飼いと表現することはとても自然であったと思われます。

 詩篇の作者は「神」を「主」(神名「ヤハウェ」)と呼び、自分を一匹の羊にたとえています。とこころで、羊の特徴は何でしょうか。一つは、方向音痴だということです。迷いやすく、一度迷ったら犬のように戻ってくることはできません。私たち人間も正しい方向性を見失って生きているのではないでしょうか(参 イザヤ53:6)。次に、弱いということです。獅子のように鋭い牙も爪も持っていません。私たち人間も、普段はいろいろな虚勢を張ってはいますが、本当は弱い存在ではないでしょうか。

 詩人は、羊飼いのもとにあって「私は乏しいことがありません」と告白しています。詩人は、神が望むものは何でも与えてくださると言っているのではなく、神が必要なものを備えてくださることを知っているので「乏しいことがありません」と言っているのです(参 ピリピ4:19)。

 2,3節では、どうして「乏しいことがありません」と言えるのかをさらに説明しています。それは羊が必要としている草や水を羊飼いが提供してくれるからです。2節の「緑の牧場に伏させ」という表現には、牧草に覆われた地面でお腹が満たされ、くつろいでいる羊の姿があります。2節bでは、羊飼いに伴われてやってきた羊が、静かで穏やかな水辺で安心して喉の渇きを癒やしている姿があります。

 3節の「たましい」(ネフェシュ)は「いのち」と訳される言葉です。衰えた活力が回復させられている羊の姿があります。そして、羊飼いが導いてくれるので迷うことなく、正しい道を行くことができると告白しています。詩人はなぜ、神が誤った道に導かれることがないと信頼しているのでしょうか。それは、「御名のゆえに」という言葉が示すように、神はご自身の名誉にかけて、ご自身のご性質に反した事をすることができないお方であることを知っているからです。

 4節には、これまでの穏やかな状況から一転して厳しい状況へと変わっています。「死の陰の谷」、それは光が差し込まない深い闇の谷です。いのちを脅かす危険な場所でしょう。人生には予期せず危機が訪れます(参 ヨハネ16:33)。それは健康や仕事や家族のことかもしれません。神を信じる者の道は、すべてが順調にいくことを約束するものではありません。しかし、詩人は「私はわざわいを恐れません」と告白し、その理由を「あなたが、ともにおられますから」としています。

 神の臨在は、キリストを信じる者の大きな特権ではないでしょうか。親しい家族や友人でも寄り添うことができない、一人でしか通れない道においても神は寄り添ってくださるのです。聖書全体を見るときに、神の臨在によってどれだけ多くの人が支えられ、励まされてきたことでしょうか(例えば、ヤコブ→創世記28:15、ヨシュア→1:5,9など)。神はあなたの人生をささえ、導いてくださるお方です。


        このメッセージは2023.2.26のものです。