蒔いたものを刈り取る ガラテヤ6章6-10節


 パウロは「互いに」(5:26,6:2)ということばを繰り返して、「交わり」(コイノーニア)のあるべき姿について勧めてきましたが、6節では「分かち合いなさい」(コイノーネオー)と命じています。「みことばを教えてもらう人」とは、今日で言うなら兄弟姉妹たち(会衆)のこと、「教えてくれる人」とは、教師(牧師)のことを指しています。パウロが命じているのは会衆が牧師を経済的に支えることです(参 Ⅰテモテ5:17)。「すべての良いもの」とあるので、経済的なことばかりでなく祈りの支援なども含まれるでしょう。

 パウロは基本的には、神のことばを伝える者が、その働きから生活の支えを得る権利がある、つまり「御霊のものを蒔いたなら、・・・物質的なものを刈り取る」ことができると考えていました(Ⅰコリント9:14,11)。しかし、パウロ個人は教会の状態を配慮しつつ、その権利を用いなかった時がありました。たとえば、テサロニケにおいては、会衆に「負担をかけないように」するため(Ⅰ2:9)、また「身をもって模範を示すために」(Ⅱ3:8)、神のことばを伝える働き以外の仕事にも従事しました(参 使徒18:3)。その一方で、ピリピの教会からは支援を受けていました(ピリピ4:15「コイノーネオー」)。

 経済状態は個々の教会によって様々でしょう。牧師を支援したいと思いながらも十分にできない地方の小さな教会も少なくないかもしれません。牧師は小さな会衆のことを十分に配慮する必要があるでしょう。その一方で、会衆は自分たちの牧師が、「祈りと、みことばの奉仕に専念」(使徒6:4)できるように祈っていく必要があるでしょう。サイドワークをしながら神のみことばをしっかり学びそれを語るという務めを十分に果たすことは容易なことではないからです。

 パウロは「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります」という格言を引用しながら、それを霊的また道徳的な事柄に適用しています。5章17節でも「肉」と「御霊」の対比がありましたが、ここでもそれが見られ、「戦い」のイメージが「農業」のイメージへと変わっています。

 「肉」と「御霊」が畑にたとえられ、肉を喜ばせ、肉を満足させる「思いや行動」という種を蒔くなら、やがてその結果である「滅び」(神のさばき)を刈り取り、御霊を喜ばせ、御霊を満足させる「思いや行動」という種を蒔くなら、その結果として「永遠のいのち」(神との交わり)を刈り取ると述べています。

 よく知られた古い格言に「思いを蒔けば行為を刈り取り、行為を蒔けば、習慣を刈り取り、習慣を蒔けば、性格を刈り取り、性格を蒔けば運命を刈り取る」という言葉があります。何を考えるかが行動となり、行動が習慣となり、習慣が性格となり、その結果がその人の人生を決定づけるということは当然な原理ではないでしょうか。

 

 蒔かないのに収穫を期待することはできないでしょう。米の種を蒔きながら小麦の収穫をすることはないでしょう。私たちが、肉を喜ばせることをいつも考えて行動しながら御霊の実を結ぶことができるかのように考えているなら、思い違いをしているのであり、蒔いたものを刈り取るように定めておられる神を侮ることになるのです(6節)。

 ところで、私たちは「肉」、それとも「御霊」の、どちらの畑に蒔いて生活しているのでしょうか。


               このメッセージは2023.2.12のものです。