やもめの支援と奉仕

 聖書には、ナオミ、ルツを始めとして、多くの「やもめ」が登場します。旧約聖書において、「やもめ」と並んで社会的な弱者として「孤児」(みなしご)や「寄留者」が出てきます。神は「みなしごの父、やもめのためのさばき人」(詩篇68:5)と呼ばれていて、神から遣わされた預言者たちは、彼らが虐げられている状況を糾弾し(エゼキエル22:7)、彼らを虐げたり、苦しめたりするな、と繰り返し訴えています(エレミヤ7:6,22:3、ゼカリヤ7:10)。新約聖書では「神の御前できよく汚れのない宗教とは、孤児ややもめたちが困っているときに世話をする」ものだとしています(ヤコブ1:27)。

 今日のような社会保障制度のなかった時代、また、女性の社会的な地位の低さなどを考えると、やもめがひとりで生きることは非常に困難でした。

 使徒の働きを読むと、そのような彼女たちを支援するための働きが行われていたことがわかります(使徒6章)。また、今回の聖書箇所からも、彼女たちを支援する体制があったことがわかります。

 今回の箇所で見解が分かれるのは、一つの「支援を要するやもめたち」について言及しているのか、それとも二つのやもめたち、すなわち3-8節は「支援を要するやもめたち」、9-16節は「名簿に載せて奉仕ができるやもめたち」についての言及なのかという点です。おそらく二つのやもめグループについての言及であり、その間には厳密な線引きはなく、重なっていた(支援を受けながら、奉仕をするやもめがいた)と思われます。

 パウロはテモテに、「本当のやもめを大事にしなさい」(第三版「敬いなさい」と命じています(3節)。単に、尊敬の思いをもちなさい、というだけでなく、経済的な支援をしなさい、ということも含んでいることばです。では、支援をすべき「本当のやもめ」(3,5,16節)とは、どういうやもめのことなのでしょうか。まず、本当に支援を必要としているやもめであるということです(「身寄りのない」)。次に、神に信頼し、祈りに専念しているやもめであるということです。夫や子供に対する責任に妨げられることなく祈りに集中できる時間をもつことができる敬虔な女性であることを条件としているのでしょう。そのようなやもめとして、私たちは「アンナ」を思い浮かべることができるでしょう(ルカ2:36,37)。

 パウロは家族がいるやもめは、家族が支援するようにと命じています。その理由として、まず、それは親の恩に報いることになるから、次に、それは神を喜ばせることだから(4節)、次に、それをしないことは未信者にも劣ることになるから(8節)、最後は、教会の負担を軽減することになるから(16節)、としています。

 9節以降の「奉仕ができるやもめたち」については、「名簿に載せる」条件があげられています(9,10節)。一つ目は60歳以上であること。二つ目は、夫に忠実であったこと、三つ目は良い評判を得ていること、具体的には、「子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い(謙虚なしもべであること)、困っている人を助けるなど」があげられています。四つ目は、残りの人生を奉仕のために未婚のままでいることに同意していること(12節)。これらの条件は、子育てを終えた年配の女性としての経験や成熟さが、その奉仕のために豊かに用いられるからでしょう。

 弱い立場にある人たちを理解し、愛することは、家族であっても容易ではないことがあるでしょう。教会も個人もできることは限られているかもしれませんが、理解と愛のための一歩を神さまによって導いていただきましょう。


            このメッセージは2021.4.11のものです。