ペテロの否認 ヨハネ18章13-27節

 ペテロは再び否定した。すると、鶏が鳴いた(ヨハネ18:27)。

 ゲツセマネの園で捕らえられた主は、まず大祭司カヤパのしゅうとアンナスのもとへ、それからカヤパのもとへと連行されました(13,24節)。ヨハネによるとペテロの否認の三回のうち、一回はアンナスのもとで、残りの二回はカヤパのもとに送られてからとなっています。共観福音書は主がアンナスのもとへ連行されたことには言及しておらず、ペテロの三回の否認はいずれも大祭司の中庭で起きたように記されています。これは両者の矛盾を示すものではなく、アンナスとカヤパが同じ夜に近くの場所にいたということを示すものと思われます。

 ペテロの否認は、四つの福音書すべてが記している出来事ですが、彼の否認からどのようなことを見いだすことができるでしょうか。

 まず、ペテロの主に対する思いを読みとることができます。主が園で捕らえられたとき、ペテロを始め弟子たちはみな逃げてしまいましたが、主の成り行きを案じたペテロは遠くからついて行き、「もうひとりの弟子」(15,16節)の口利きによって、敵地の懐深く乗り込んで行きました。そのような向こう見ずな行動は彼の性格をよく表しているといえますが、また彼の主に対する思いもよく表しているといえます。彼の失態を正当化したりするつもりはありませんが、彼の失態は「イエスについて行った」(15節)ゆえのものであったといえるのではないでしょうか。主に対して冷淡であったり、無関心であるなら、葛藤や失態も経験しないでしょう。ラオディキアの教会に対して、主は「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであったほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す」(黙示録3:15,16)と言われています。

 恐れて何もしないなら失態もないでしょう。ペテロの主に対する思いは、彼が主を否認した後の深い自責から来る激しい涙にも見ることができます(マタイ26:75)。主はあらかじめペテロの否認を知っておられ、彼の信仰のために祈っておられました(ルカ22:32)。主はご自身を愛する者のためには、その失態をも用いてその者を整えてくださるお方なのです。

 

 次に、ペテロが本当の自分に向き合わされているということです。ペテロは晩餐の席で「あなたのためなら、いのちも捨てます」(13:37)と、その決意を表明していました。その決意は偽りのない心からのものであったかもしれません。しかし、危機は彼の本当の姿をさらけ出してしまいました。彼は自分を過信していたのです。

 自分のことは自分がよく分かっていると思いがちですが、危機や挫折は私たちの本当の姿(弱さ、愚かさ、醜さ、無知、高慢など)に向き合わせます。神は私たちのうちにある偶像を引き倒されます。その偶像とは、私たち自身の力や知恵のことに他なりません。神はそれが頼りにならないことを手痛い失敗を通して私たちのうちに刻み込もうとされるのです。

 「失態や挫折」そのものは、だれにとっても決して快いものではありません。しかし、それは私たちの人生の一部です。ですから、それを通して何を学ぶのかということはとても大切です。ごまかしたり、環境や誰かのせいにしたりするのではなく、また自分の現実の姿に落胆にするのではなく、信仰をもって主が取り扱ってくださる機会としましょう。

                         このメッセージは2020.4.5 ものです。