ピラトの法廷(1) ヨハネ18章28-40節

 さて、彼らはイエスを、カヤパのもとから総督官邸に連れて行った。明け方のことであった。彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中に入らなかった(ヨハネ18章28節)。

 ヨハネは、主イエスがゲツセマネの園で捕えられ、まずアンナスのもとで非公式の尋問を受けたあと、大祭司カヤパのもとへ送られたことを記していますが(18:24)、深夜や夜明けに招集された「最高法院」(マタイ26:59、マルコ15:1)の様子については省略しています。

 ヨハネは「明け方」になって開かれた総督ピラトの法廷での様子を他の福音書よりも詳しく記しています。その法廷の様子を今回と次回にわけて見ていくことにしましょう。

 主は総督ピラトのもとへと連行されます。ユダヤ人たちには「だれも死刑にすることが許されてはい」(31節)なかったので、総督の判決を得る必要がありました。彼らは、ここで主を死刑にするための告訴理由を変更しています。神を信じていないローマの総督に冒涜罪を訴えたところで(参 マタイ27:66)、その目的を果たせないことは予測できました。ルカの福音書によると、彼らの告訴理由はローマに対する反逆罪であることが分かります(23:2)。ピラトが主に「あなたはユダヤ人の王なのか」と尋問していますが、その言葉からも、彼らが主をローマに反逆を企てる自称「ユダヤ人の王」として訴えていることがうかがえます。

 ユダヤ人たちは、主を殺すためには手段を選ぼうとしません。しかし、その一方で「過越の食事が食べられるようにするため」、宗教的な「汚れを避けようとして」異邦人である総督の官邸に入ろうとしませんでした。ここには彼らの罪に対する感覚の麻痺が見られます。不正な手段で人を死に追いやることと儀式的な汚れと、どちらが神を畏れないことでしょうか。

 ピラトはユダヤ人たちの告訴の動機が「ねたみ」であることを見抜いていました(マタイ27:18,マルコ15:10)。主はユダヤ人たちに対して、外面には心を配っているが、内面は汚れていっぱいであることを指摘したことがありました(マタイ23:27,28)。また、主は人を汚すものは心から出てくるとも言われました(マルコ7:21-23)。外面はどうでもよいということではありませんが、もっと私たちが心を配るべきは心の中の悪しき思いではないでしょうか(参 Ⅰペテロ3:3,4)。

 ピラトは主への尋問によって、主の国がこの世のものではなく、武力や権力によって従える王ではなく、真理によって人々を導く王であるとの証言から、主はユダヤ人たちが訴えているようなローマにとって危険な者でないことが分かります。それで何とか主を釈放しようと試み、過越において慣例となっていた恩赦を利用しようとしました。しかし、彼は指導者たちが群衆を扇動していたことを計算に入れていませんでした(マルコ15:11)。群衆が釈放を求めたのは、主ではなく「バラバ」(参 ルカ23:19)という人物でした。罰せられるべき罪人が赦され、罪のない人が罪に定められています。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました」(Ⅱコリント5:21)とありますが、バラバの釈放は、ある意味で私たちの救いを先取りするものであったと言えるのではないでしょうか。

                   この礼拝メッセージは2020.4.19のものです。