使徒の選出と目的 マルコ3章7節ー30節

 7-12節には主の短い宣教活動の要約が、13-19節には十二使徒の選出とその目的が記されています。20-35節は、主イエスの家族が主を連れ戻しに来たエピソードの間に(20-21,31-35節)、律法学者の非難に対して主がどのように答えられたかが記されています(22-30節、サンドイッチ構造)。

 スペースの関係で、ここでは主の十二使徒の選出とその目的について取り上げたいと思います(並行記事:マタイ10:2-、ルカ6:12-)。ルカ6章12,13節には「イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。そして、夜が明けると弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をお与えになった。」とあります。「使徒」(アポストロス)とは、「遣わされた者」(ヨハネ13:16)という意味で、主によって権威を与えられて遣わされた者を指します。

 どのような目的のために主は十二人を選ばれたのでしょうか。一つは「ご自分のそばに置くため」です(14節)。彼らは主と特別な関係にある者たちです。主の御業や教えを直接見聞きし、主から訓練を受けた者たちです。主との特別な関係性が彼らの立場や将来の働きの土台となるのです(参 エペソ2:20)。

 もう一つは派遣するためです(実際の派遣は6章7節以降に記されている)。主はご自身の使命について福音(神の国の)を伝えるために来たと言っておられます(参 1:38)。彼らは主の使命を分かち合い、主の昇天後もその働きを継続するために選ばれたのです(参 20:21)。彼らに悪霊を追い出す権威を与えられたのは、彼らのメッセージの確かさを示すことがきるようにするためでしょう(15節、6:7,13)。

 主が選ばれた十二人のリストは、少し順番は異なりますが、マタイやルカ、使徒の働き1章13節にも見出すことができます。彼らは、特に何か誇るべきものを持った人々ではなく、ごく普通の人々でした。もし主が彼らを使徒として選ばれなかったなら、歴史の中に名を残すような人々ではなかったでしょう。

 十二人のうちの二組の兄弟たち(「ペテロ」と「アンデレ」、「ヤコブ」と「ヨハネ」)はガリラヤ湖の漁師であり、「無学な普通の人」(使徒4:13)たちです。主は「ヤコブとヨハネ」の兄弟に「ボアネルゲ」(「雷の子」)という名をつけられましたが、おそらく、彼らが気性の激しい者たちであったからかもしれません(参 ルカ9:54)。2章ですでに弟子として召されている「マタイ」(レビ)は取税人です。ユダヤ人社会から嫌われ、罪人と同一視されている者です。一方、「シモン」は「熱心党」の愛国者であり、取税人とは相容れない立場の者です。「トマス」は、主の復活を信じようとしなかった疑い深い者です。「イスカリオテのユダ」に至っては、主を裏切った人物です。主はまさか彼がご自身を裏切るとは予想もしなかったのでしょうか。そうではありません。主はすべてを知っておられたのです(参 ヨハネ6:64)。

 私たちには主がどのような基準で十二人を選ばれたのかよく分からない点があります。しかし、はっきり言えることは、普通なら選ばれそうにない人々が選ばれたということではないでしょうか。そのことは私たちにとって大きな希望ではないでしょうか。私には知恵も力もありません、と嘆く必要はないのです。主は誇るところのない者を選ばれ、ご自身の働きのために整え用いることがおできになるのです。主は非常に短い公生涯の中にあっても、ご自身の働きを担う後継者を選び、備えておられました。私たちの教会にも後継者が必要とされています。そのために祈りましょう。

                このメッセージは2024.1.14のものです。