信仰と不信仰 民数記13,14章

 

 同じ経験をしながら、その受け止め方は人によって全く異なる事があると思います。その典型的な例を民数記13,14章の中に見出すことができます。出エジプトを経験したイスラエルの民は、なぜ神が約束された地に入ることができなかったのでしょうか。

 イスラエルの民は神が約束された地の南の境界「カデシュ・バルネア」(13:26,申命1:19)までやってきました。約束の地は目前です。モーセは「神の命」によって十二人の偵察隊を遣わしました(参 申命1:19-)。

 偵察隊員たちは、偵察した地が神の約束のとおりに「乳と蜜の流れる」地であると報告しました(肥沃で豊かな地 参 出エジプト3:17)。しかし、その地を占領できるかを巡っては、十人とカレブとヨシュアの二人では見解が分かれてしまいました。十人は、敵は背の高い強い民であり、強固な城壁を持っているので、「あの民のところには攻め上れない」と会衆に強い恐怖心を植え付けてしまいました。彼らは敵に対して自分たちが「バッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう」(13:33)と報告しました。自分たちがどのように感じ、見えたかということはさておき、敵も「そう見えただろう」という推測は決して正しいものではありません(参 ヨシュア2:9)。強い恐れが現実を冷静に正しく見ることをできなくさせてしまっているのです。

 十人の偵察員とは異なる見解を主張したのは、カレブとヨシュアです。13章ではカレブの言葉が紹介され(30節)、14章では二人の言葉が紹介されています(7-9節)。二人は敵が侮れない強い存在であることは否定しませんでしたが、「必ず勝つことができます」と民を励ましています。二人が勝利できると考える根拠は何でしょうか。神の約束であり、神の臨在です。十人は自分たちの力と敵の力だけを比べて無理だと判断してしまいました。それに対して、カレブとヨシュアは現実を見据えながらも、その状況に対して神に信頼しました。なぜなら、神は約束に対して真実な方であり、出エジプトにはじまり、これまでの旅程においても様々な力を実証してくださっているお方だからです(参 14:11,24)。信仰を働かせるとは、現実に目を塞ぎ、それを無視することではありません。個々のさまざまな困難な状況の中に神が働いてくださるのを信頼することなのです。

 会衆は神の約束ではなく、十人の偵察員の言葉を信じました。そして、「この荒野で死んでいたらよかったのだ」「なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか」などとつぶやき、「さあ、われわれは、かしらを一人立ててエジプトに帰ろう」とさえ言っています(14:2-4)。エジプトの奴隷から救い出してくださった神の善意、そのご計画を拒絶し、ついには、神に信頼するように励ましたカレブとヨシュアを殺そうとさえしています(14:10)。

 14章13-19節にはモーセの民へのとりなしがありますが、そのとりなしがなかったなら民は滅ぼされていたことでしょう。神は憐れみによって彼らを赦されましたが、何度もご自身の御業を見ながらご自身に従おうとしたかった民を、彼らの言葉によってさばかれました(14:22,28-)。古い世代は約束の地に入ることが許されず、古い世代で約束の地に入ることできたのはカレブとヨシュアの二人だけでした(14:24,30,38)。ヘブル3章19節にはイスラエルの民が「安息」(約束の地)に入れなかったのは不信仰のためであったことが強調されています。人のことばではなく、神のことばに信頼し、神とともに新しい一年を歩んで行きましょう。

                 このメッセージは2023.12.31のものです。