神の選びを証しするもの Ⅰテサロニケ1章4-10節

 教会とは、父なる神とキリストのうちにある者たちの集りであること(1節)、また三つの霊的な特徴を備えた者たちの集りであること(3節)、そして、神に選ばれた者たちの集りであること(4節)がわかります。人間の意思決定と神の主権による選びは、共に聖書が教えていることです。神の選びは、私たちのうちに神を惹きつける価値や魅力があるからではありません。イスラエルの民が選ばれたのが神の愛であったように(申命記7:6-8)、パウロは「神に愛されている兄弟たち」と呼びかけて、神の選びと神の愛を結びつけています。パウロはⅠコリントの1章27節以降で、神が「愚かな者」、「弱い者」、「無に等しい者」を選ばれたと言っています。神の選びを考えるときに、私たちは謙遜にさせられ、神の恵みを覚えて賛美と感謝の思いに満たされるのではないでしょうか。

 私たちはあらかじめ誰が神の救いに選ばれているかは知りません。しかし、ここでパウロたちは、「あなたがたの選び」(直訳)を知っています、と言っています。神のご計画を見通すことができると言っているのでしょうか。そうではありません。5節以降の事柄を通して、彼らが確かに神の選びにあずかっていることを知っていると言っているのです。

 パウロがテサロニケのクリスチャンたちの選びを確信できるのは、「福音」が彼らのうちにしっかりと届いているからです。では福音は、パウロたちによってどのように届けられたのでしょうか。まず、神の「ことば」を通してです。知らないことをだれも信じることはできません。次に「力と聖霊と確信を伴って」です。良く準備された明瞭なことばは大切でしょう。でも、それで十分ではありません。パウロは、語られたことばは聖霊の力によって、また確信を伴ったものであったと言っています(参Ⅰコリント2:4)。それは今日の説教に欠けているものが何であるかを教えられます。

 パウロたちによって語られた福音はどのようにして、聞き手に届いたのでしょうか。「多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ」とあります。福音を語る側も受け入れる側も迫害の中にありました。しかし、福音はしっかりと理解され、「喜び」をもって受け入れられたのです。そこに聖霊のお働きがあったからです。「真理の御霊」はみことばを理解させてくださる方であり(ヨハネ16:13)、御霊は「喜び」の実を結ばせてくださる方です(ガラテヤ5:22)。

 テサロニケ人のクリスチャンたちの選びは、彼らがパウロたちや主に倣う者となったことにも見いだすことができます(7節)。パウロたちがどのように生活しどのように福音を伝えたかを、彼らはよく見て知っていました(5節)。そして、彼らはパウロたちの生活に倣う者となったのです。なぜ、「主(キリスト)」より「私たち(パウロたち)」が先なのでしょうか。それは彼らが直接接していたのはパウロたちだからです。

 7,8節には、テサロニケのクリスチャンたちの信仰が広い地域に影響を与えたことが語られています。彼らがマケドニアとアカイア(ギリシアの北部と南部)の「信者の模範となった」こと、そして、彼らによって福音がそれらの地域に「響き渡った」ことなどを聞いていると言っています。  

 パウロたちがテサロニケに行く前には、そこには教会はありませんでした。しかし、福音によってそこに教会が誕生し、その教会によって福音がさらに拡大しているのです。教会の語る福音が、御霊の働きをとおして、人々の心に届きますように。


                  このメッセージは2022.4.10のものです。