キリストが来られた目的 ルカ19章1-10節
「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19章10節)
ずいぶん昔のことになりますが、娘が幼かった頃のことです。彼女と添い寝をすると、ザアカイさんの話を時々せがまれました。ザアカイの物語は子どもたちにとってもなじみの深いものです。10節には、何のためにキリストがこの地上に人となって来られたのか、その目的が明らかにされています。
ザアカイはエリコの町の「取税人のかしら」でした。取税人は同胞から罪人としてのレッテルを貼られて嫌われていました(7節)。その理由は、敵(ユダヤを支配しているローマ)の手先となって同胞から税金を集めていたことと、決められた以上の税金を集めて私腹を肥やしていたからです(参 ルカ3:13)。「ザアカイ」とは「きよい、義人」という意味ですが、彼はその名前とは全く逆の評価を背負いながら生きていました。しかし、そのような彼がキリストに見出され大きく変えられたのです。ザアカイの例から、神から失われている者に共通する特徴とは何かをみていきましょう。
まず失われている者は、罪を認めて悔い改めることができないということです。かつてのザアカイは罪を罪とも思わない生活をしていました。しかし、主との出会いによって「だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します」と告白し、罪を悔い改めています。誰も赦しなくして「罪」としっかり向き合うことは困難ではないでしょうか。なぜなら、そこには刑罰への恐れがあるからです。ザアカイの「四倍にして返します」との告白は赦されたいがための告白ではなく、赦された者の告白です。罪が罪としっかりわかることも、そして、それを悔い改めることができるのも罪の赦しの権威を持つお方の前に立つ時なのです。
次に、失われている者は本当の愛を知らないということです。ザアカイはユダヤ人社会から疎外され孤独でした。しかし、主はそのような自分をありのままに受け入れて、親しい交わりのために家に泊まってくださるとさえいうのです。無条件の愛を知った彼は、今や貧しい人たちにその心を開いて「私の財産の半分を貧しい人たちに施します」と告白しています。愛された者は、愛を与えることができるようになるのです。
最後に、失われている者は誤ったものを目的にして生きているということです。主に出会う前のザアカイにとって信頼できるものはお金であり、それは彼の手にしっかりと握り締められていました。しかし今や、お金は彼によって正しく管理され、用いられようとしています。お金はもはや彼の人生の目的ではなく、彼の人生を生かすための手段になっていることがわかります。主によって見出される人々は人生の正しい目的を見出すことができるのです。
サアカイは新しい歩みをしようとしています。それは主が彼を見出してくださったからであり、ザアカイが主を「迎えた」ことによります。キリストは今もあなたの心の扉をたたき続け、あなたを見出そうとしておられます。失われた者であることを認め、主を迎えるとき誰でも新しい歩みをすることができるのです。
このメッセージは2021.12.19のものです。