博士たちの礼拝 マタイ2章1-12節


 マタイの福音書には、その信仰が賞賛されている異邦人たちが登場しますが(マタイ8:10,15:28)、今回の「博士たち」もその中に入れることができるでしょう。ところで、「博士」たちは何者だったのでしょうか。ギリシア語の「マゴス」(英語のマジックの語源)は、元来はペルシヤの祭司階級の名称でしたが、後には魔術師(参 使徒13:6,8)や占星術師の意味で広く用いられるようになり、さらに後には賢者たちにも使われるようにもなりました。聖書は魔術などを禁じているので、天文学に通じた賢者たちといったところでしょうか。

 博士たちが訪れたのは、「ヘロデ王の時代」です。ヘロデ王は紀元前4年に亡くなったことは分かっていますので、その少し前ということになるでしょう(参 2:16)。ヘロデはローマを後ろ盾にしてパレスチナ全土を支配した王です。猜疑心が強く残忍な王でした。その王のもとに博士たちは誕生したばかりの「ユダヤ人の王」への謁見を求めて来訪したのです。

 ヘロデにとっては突然のライバル出現に心穏やかではなかったでしょう。ヘロデは平静を装いながら、博士たちの問いに答えるために、宗教指導者たちを招集し「キリストはどこで生まれるのか」と問いただしました。預言によってベツレヘムであることがわかると(参 ミカ5:2、ヨハネ7:42)それを博士たちに伝え、博士たちからは星の出現の時期を聞き出し、幼子の年齢を知ろうとしました。そして、敵意を覆い隠して自分も行って「拝むから」と敬虔を装い、博士たちをベツレヘムへと送り出しました。

 博士たちはベツレヘムへと向かう中で、かつて見た星に導かれてイエス様がおられる家にたどり着き、幼子を礼拝し、持ってきた高価な贈り物をささげ、夢で警告を受けて来た道とは別のルートをたどって自分たちの国へ帰って行きました。

 博士たちがはるばるエルサレムへとやってきた目的は礼拝のためであり(2節)、また実際に礼拝を献げています(11節)。彼らの礼拝から私たちはどのようなことを読み取ることができるでしょうか。

 まず、礼拝は神の啓示によって始まるということです。私は博士たちが幼子を礼拝したということに驚かされます。彼らが見たのはどこにでもいるような無力な幼子の一人にすぎなかったでしょう。今日の私たちは、成長したイエス様が何を語り何を行ったのかを知っているので、この方こそ礼拝するのにふさわしいという思いに至ります。しかし、博士たちは星と預言のことばによってベツレヘムの幼子のもとへと導かれたのです。それは父なる神がご自身の御子を礼拝すべきお方として啓示され(参 ガラテヤ1:16)、礼拝できるように導かれたからです。その点では、今日の私たちも同じではないでしょうか。礼拝は私たち人間から始まるものではなく、神が私たちにどなたを礼拝すべきかを啓示してくださったからなのです。

 次に、礼拝には真摯な思いや態度が必要であるということです。博士たちの姿は、ヘロデ王や宗教指導者たちとは何と対照的でしょうか。博士たちは長旅のために多くの費用や時間、またリスクを覚悟しなければならなかったでしょう。与えられた手がかりをもとにして礼拝すべきお方を見出そうとする真剣さや熱意がそこにはあります。贈り物として献げた「黄金、乳香、没薬」からも礼拝するお方にふさわしいものとの思いをみることができるのではないでしょうか。


 最後に、礼拝は変えられた人生への歩みを導くということです(このポイントの説明についは、説教集で確認してしてください)。

              この説教は2022.12.25のものです。