教会について(1) 教会とは?

 
 あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です(Ⅰコリント12章27節)。

「教会」というと、建物を連想する人が多いかもしれません。しかし、それは「教会堂」であって「教会」ではありません。「教会」と訳されているのはギリシア語の「エクレシア」で、新約聖書には114回出て来ます。そのほとんどは「教会」と訳されていますが、もともとはキリスト教の専門用語ではありませんでした(参 使徒19:32,39,40)。

 「エクレシア」は、「~から」を意味する「エク」と「呼び出す」を意味する「カレオー」からなる語で、神によってこの世から呼び出された者たちを指しています。つまり、「教会」とはクリスチャンたちの集りのことです。

 主イエスは弟子たちに「わたしの教会を建てます」(マタイ16:18)と約束され、ルカは「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)と呼び、パウロは「キリストは教会を愛し、教会のためにご自分を献げられた」(エペソ5:25)と表現しています。これらの言葉から、教会とは神の御子が愛するゆえに、ご自身の犠牲によって買い取られた者たちのことであり、ご自身のものである、ということが言えるでしょう。

 新約聖書において、教会は様々なイメージをもちいて説明されています。それらのひとつひとつを理解するなら、教会がどのような存在であるかを理解する助けとなるでしょう。ここではその中の一つで、パウロがよく用いている「キリストのからだ」(Ⅰコリント12:12-27,ローマ12:4-5、エペソ1:23,4:12、コロサイ1:24)を取り上げましょう。そこからどのようなことを見出すことができるでしょうか。

 まず、教会は多くの器官からなる一つのからだであるということです(Ⅰコリント12:12,14,20)。一つ一つの器官が異なるように、クリスチャンたちひとりひとりも異なっています。教会は、実にさまざまな人種、年齢、気質、社会的地位(貧富、職種)の人々からなる一つのからだです。神は、ひとりひとりを「みこころにしたがって、からだの中」に各器官として備えてくださったのです(18節)。

 次に、教会(からだ)は各器官がそれぞれ依存し合っているということです。「目」は非常に重要な器官で、視力が失われるなら行動が大きく制限されてしまいます。しかし、からだは目だけではその機能を果たすことはできません。「目」が他の器官から切り離されて机の上にあったならば、ただ気持ち悪いだけです。車の運転を考えてみてください。目は、走るべき道路やさけるべき障害物を捕らえます。その情報によって手足は、ハンドルやアクセルやブレーキを操作します。視覚の情報を無視して手足が勝手に動いたならば、安全な運転はできるものではありません。ある器官がどんなに素晴らしい機能を持っていたとしても、他の器官に依存しないでいることはできないように、ひとりひとりのクリスチャンも互いに依存し合っています。 

 次に、教会(からだ)の各器官は不可欠で大切な存在であるということです。パウロは面白いことに、各器官(「足」「耳」「目」「頭」)にそれぞれ語らせつつ(Ⅰコリント15,16,21節)、それぞれが必要とされている大切な存在であることを理解させようとしています。だれも他のクリスチャンと自分を比べて、自分は役に立たない、価値がない、必要とされていないと自己卑下をしてはなりませんし、また高慢になって他のクリスチャンに対して「あなたはいらない」と排除してはなりません。「からだの中に分裂」があるなら、健康を保つどころか衰えるしかありません。

 どのような人の集まりにも問題は起こります。それは教会でも例外ではありません。しかし、私たちはひとりひとりが「キリストのからだ」の大切な各器官であることを見失わないようにしましょう。

                       このメッセージは2020.11.8のものです。