感謝を見出そう
そのうちの一人は、自分が癒されたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった(ルカ17章15,16節)。
バケツの縁いっぱいになった水を運ぼうとするとき、水はこぼれてしまいます。同様に私たちの心も、何によって満たすかによって私たちの口からこぼれるものがあります。たとえば、私たちの心を不平不満によって満たすなら、私たちの口から愚痴やつぶやきがこぼれるでしょう。出エジプト記や民数記を読む時、エジプトの奴隷から解放されたイスラエルの民がその荒野の旅路において、ことあるごとにつぶやいている姿をみることができます。しかし、私たちの心を感謝の思いで満たすなら、私たちの口から神をほめたたえる賛美が生まれてくるでしょう。
詩篇の作者は、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(103:2)と、自らに語りかけています。作者は「主に感謝せよ」ではなく、「主をほめたたえよ」(103:1,2)と繰り返しています。なぜでしょうか。それは「ほめたたえる」という賛美の中に感謝の思いが内包されているからです。「感謝」と「賛美」は密接につながっています。両者を明確に区別することは容易ではありませんが、「感謝」を与えられた恵みに焦点を当てるものだとするなら、「賛美」は恵みを与えてくださったお方に焦点を当てるものと言ったらいいかもしれません。ですから、感謝の思い(神さまありがとう)から賛美(神さま、あなたは何とすばらしいお方でしょう)が生まれるのは自然なことなのです。
ルカの福音書17章には、主イエスによって癒された「ツァラアトに冒された十人の人」が登場します。しかし、神を賛美しつつ戻って来て主に感謝の思いをあらわしたのは一人だけでした。(15,16節)。皮肉にもその一人はユダヤ人が軽蔑していたサマリア人でした。十人は主が自分たちのツァラアトを癒すことができるとの信仰は持っていました。しかし、癒されたことに感謝するために戻って来たのは一人だけでした。
クリスチャンたちは、キリストを通して救いの恵みにあずかった者です。罪が赦され、神の子どもとされ、聖霊の内住をいただき、そして「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:5)と言われた主が共にいてくださいます。何と感謝なことでしょう。
詩篇の作者は「主が私に良くしてくださったすべてに対し 私は主に何と応えたらよいのでしょう」(116:12)、と問いかけています。神の御子の尊い犠牲によって、救いの恵みにあずかった者として、また信仰生活を送るなかで経験するさまざまな恵みに対して感謝と賛美の思いをもって礼拝をささげ、主に栄光を帰すことは、それにふさわしいことではないでしょうか。
自分にとってよい事があったときに感謝することは簡単です。しかし、自分にとってよくないことが降りかかったときに感謝することは容易ではありません。しかし、聖書は「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい」(エペソ5:20)「すべてのことにおいて感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:18)と命じています。人生には辛い挫折や試練を通してしか学ぶことができないことがあるに違いありません。辛い経験から良いものを見出し、感謝することには信仰が必要です。コロナ禍にあって先が見えない状況がありますが、神さまの御手を信頼して(参 ローマ8:28)、感謝を見出しつつ歩んでいきましょう。
このメッセージは2020.12.27のものです。