結婚とは マルコ10章1-12節
主が結婚について教えられたのは、群衆を教えておられたときに、パリサイ人たちがやって来て「夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうか」(2節)と質問したことに端を発しています。彼らの質問の動機は「イエスを試みるために」とありますので、素直に教えを求めるものではなく悪意あるものでした(参 8:11)。
主はパリサイ人の質問には直接答えられず、逆に彼らに彼らの見解を尋ねられ、彼らは「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました」(4節)と答えました。彼らの答えは、申命記24章1-4節を念頭に置いたものです。24章1節では、妻の「何か恥ずべきこと」の理解をめぐって、パリサイ人の間で意見が分かれていました。厳格な立場のシャンマイ派の人たちは、それを姦淫(配偶者以外との性的な関係をもつこと)と解して、性的な不道徳以外の理由を認めませんでした。一方、自由な立場のヒレル派の人たちは、些細な理由でも夫が気に入らなければできると考えていました。彼らの間には見解のずれがあったものの、当時の社会においては、夫は離婚状を渡して妻を去らせることが容易にできるような傾向にあったようです。
主は離婚ができる理由については語られず、モーセが離婚を許容したのは、人間が持っている罪の現実のためであったからであり(5節)、神の本来の結婚の意図には離婚はなかったということを(マタイ19:8「はじめの時からそうだったのではありません」)、創世記1章27節(6節)と2章24節(7,8a節)を引用して教えておられます。
さて、主が結婚について語れた言葉から、どのようなことを見出すことができるでしょうか。
まず、結婚は神が定められたものであり、一夫一婦制であるということです。主は結婚について、神が男と女に造られたことから始め、「男は父と母を離れ、・・・ふたりは」と引用されています。もし、結婚が人間の定めた制度であるなら、社会の変化によって同性婚も認められるでしょう。もし同性婚が認められるなら、一夫多妻婚や近親婚を否定する根拠もやがてはなくなってしまうでしょう。
次に結婚は、神の前における「契約」であり(参 箴言2:17,マラキ2:14)、神聖なものであり、生涯のものであるということです(参 ローマ7:2)。キリスト教の結婚式において、誓約がなされます。例えば「死が二人を分かつまで」といった文句は、結婚式の演出を盛り上げるための台詞ではありません。二人を結び合わせてくださった神の前に生涯の誠実を誓うということです。それは厳粛なことであり、軽々しく行なうべきことではありません。もし結婚が当事者同士の期限付きの約束であるとするなら、離婚へのハードルはとても低くなるでしょう。
主は弟子たちからの問いに答えて、「だれでも、自分の妻を離縁し、別の女を妻にする者は、妻に対して姦淫を犯すのです」(11節)と語り、次節でも「妻」に対して同じ基準を適用しています。もし神の前に離婚が無効であるなら、結婚は継続していることとなり、再婚は姦淫となるということです。主は9節で教えられた結婚の永続性をここでも補強していることがわります。
牧師として結婚におけるさまざまな現実問題を承知しているつもりです。現在、結婚関係に悩み苦しんでいる人々に対しては、他の箇所から結婚について語る必要があることを覚えますが、神が本来意図された結婚がどのようなものかを、これから結婚しようとしている若いクリスチャンたち、また結婚しているクリスチャンたちに理解して欲しいと思っています。
このメッセージ2024.5.5のものです。