主の弟子としての道 マルコ9章30-50節

 

 今回の箇所(30-50節)にも、主イエスの受難と復活の予告(二回目)とそれに対する弟子たちの無理解、そして弟子としての道がどのようなものであるかが語られています。

 二回目の予告には一回目(8:31)にない「引き渡され」るという言葉(パラディドーミ)が出てきます。主の受難によく出くる動詞です。主はイスカリオテ・ユダによって(14:10,11)、祭司長たちによって(15:1)、総督ピラトによって(15:5)、そして、父なる神によって死に「引き渡され」ました(ローマ8:32,使徒2:23)。父なる神は主を引き渡した人々の罪をも用いて、私たちの救いのみわざを成し遂げてくださったのです。

 主の予告を聞いた弟子たちは今回もそれを理解することができませんでしたが、弟子たちは「イエスに尋ねるのを恐れていた」(32節)とあります。主の死という現実に向き合う勇気がなかったのでしょうか。それとも、これまで何度も無知を指摘されてきているので、叱責されることを恐れたのでしょうか。

 主はエルサレムへ死ぬために向かおうとしておられましたが、弟子たちはエルサレムには主の王国が誕生し、その王の臣下として誰が高い地位を得るかを言い争っていたのです(34節)。主から何を論じ合っていたのかと尋ねられたとき、さすがに、無知であった弟子たちもふさわしくないと感じたのでしょう、沈黙するしかありませんでした。

 主は弟子たちの野心を打ち砕くかのように「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい」(35節)と、ご自身に従う弟子としての道を示されました。

 主の弟子としての道の第一は、仕えるということです。主はそのことを教えるために、子どもの一人を腕に抱き、「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです」と言われました。ここで「子ども」が選ばれているのは、当時の社会において弱くて小さく、取るに足りない者を代表する者であったからです。この世のリーダーたちは、社会的な弱者を踏みつけ顧みませんが、ご自身の弟子はそのような者ではないと教えられたのです。

 主の弟子としての道の第二は、寛容な心をもっていなければならないということです(参 ピリピ1:18,民数11:26-30)。自分たちのグループだけが正統な権威をもっているとして、他の人々を否定することは簡単ですが、その動機が何(霊的高慢、嫉妬)であるかを吟味し、また真の敵がだれであるかをしっかりと洞察することが必要です。

 主の弟子としての道の第三は、弱い者たちを配慮し、聖く歩むということです。主は弱い信者たちをつまずかせないように警告し(参 Ⅰコリント8章)、自らの「手」や「足」や「目」がつまずきの原因となるならそれらを取り除くようにと命じています。しかし、文字通りそうすることを意図したものではありません。なぜなら、つまずきの真の原因は体のある部分ではなく心にあるからです(参 7:20-21)。

 「手」や「足」や「目」は、私たちが何をするのか、どこへ行くのか、何を見るのかということを問いかけています。神の喜ばれないことをしているなら、神の喜ばれないところに行き、神の喜ばれないものを見ているなら、罪に対する感覚が鈍くなっているのです。「いのちに入る」(43,45節)こと、「神の国に入る」(47節)ことの素晴らしい価値を見失ってはなりません。


           このメッセージは2024.4.28のものです。