結婚とは
それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである(創世記2章24節)。
既婚者が婚約したカップルに「今が一番いい時よ」と、言葉かけをすることが多くあります。それはいったいどういう意味で言われているのでしょうか。少しのやっかみもあるでしょうが、そこには体験者たちの「結婚生活の現実はそんなに甘いものではないのよ」とのメッセージが込められています。厳しい現実はまた離婚件数の増加からもしっかりと読みとれます。
ところで「結婚」とはそもそも何でしょう。「結婚」は、神が人を男と女に造られたことに端を発します。すなわち、神がその創造のうちに定められたもので、人間が考え出した社会制度ではありません。ですから、結婚とは当事者同士の単なる約束事ではなく、結婚を定められ、ふたりを結婚へと導かれた神の御前における契約なのです(参 箴言2:17)。結婚式の誓約において司式者は「この結婚が神の御心であると確信しますか」と尋ねます。人間的な打算や恋愛感情は結婚生活の現実の前にもろいものです。結婚継続の安定した基盤は、結婚を導かれ、結婚を完成へと助けて下さる神によるのです。
幸いな結婚をするためには結婚を定められたお方のガイドブックに従う必要があります。そのガイドブックには、まず「父と母を離れ」なさいとあります。新しい家庭を築こうとしているわけですから、精神的に両親から自立をしていることが重要です。結婚は自立できない男女のもたれ合う関係ではなく、自立した者同士の協力関係です。どちらか一方やふたりが自立していなく、わがままな子どものようであるなら結婚生活は暗礁に乗り上げることは目に見えています。
次に「結ばれ」るための調整が必要です。「結ばれる」とは「糊付けする」という意味です。そこに第三者を割り込ませてはなりません。ふたりが結び合うためには、それぞれが過去の問題を精算し、誤った過大な期待を捨て、赦しと愛をもって向き合う必要があります。
最後に「一体となる」ことをめざす必要があります。「一体になる」とは、性的にも精神的にも霊的にもひとつになること意味します。この一体性は初めから完成されるものではなく、それぞれが神に近づく(聖霊に満たされる)ことによって導かれていきます(エペソ5:18)。神は結婚しているふたりが身勝手に自分の必要が満たされたいと願うところから、相手の必要に心を開いてそれを満たそうとするように導かれ、満たす力をくださいます。
今日キリスト教演出の結婚式がもてはやされ、披露宴には大金がつぎこまれます。しかし、それらは幸いな結婚生活を保証するものではありません。しかし、あきらめてはなりません。結婚を定め、導き、完成へと導いて下さる神に信頼するならいつでも希望があるのです。