「言い伝え」と汚れ マルコ7章1-23節

 

 主イエスのうわさはエルサレムの宗教指導者たちの耳にも届いていました。エルサレムから律法学者たちがやって来たのは(参 3:22)、主の言動の監視・調査のためであったと思われます。彼らはパリサイ人とともにやって来て、主に尋ねました。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか」(5節)と。彼らは衛生面のことを問題にしているのではありません。先祖たちが言い伝え(伝統)として守ってきた儀式的なきよめをなぜ守らないのか、という指摘です。弟子たちの問題行動の責任は師である主にあるということなのでしょう(参 ルカ11:38)。本来、きよめの儀式は幕屋の奉仕をする祭司たちに命じられていたものでしたが(参 出エジプト30:18-21)、それが一般のユダヤ人にまで拡大されていたのです。

 主は宗教指導者たちへの応答(6-8節、9-13節)の中で、彼らが守っている「言い伝え」(3,5,8,9,13節)と「神の戒め」(8,9節)や「神のことば」(13節)とを鋭く対比させて、自分たちの「言い伝え」(「口伝律法」)によって「神のことば(戒め)」を「捨て」「ないがしろにし」「無にしている」と厳しく非難しています。「言い伝え」が権威ある「神のことば」を「無にしてい」るとするなら、何という本末転倒でしょうか。

 主は宗教指導者たちへの最初の応答において、旧約のイザヤ(BC8世紀の預言者)が当時の人たちを「偽善者」(ヒュポクリテース、「役者」を意味)として叱責したことばを引用し(イザヤ29:13)、それを彼らに当てはめています。彼の外見は信仰深く見えていても、その心は神から離れていたのです(参 イザヤ1:10-17)。もし信仰の「外見」と「心」が一致しないならば偽善者となるのです。

 次の応答では、彼らが「自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにして」いる多くのケースの中から一つの例をあげています。「見事に」(9,6節)とは、痛烈な皮肉でしょう。

 主が具体的に取り上げている神の言葉は「あなたの父と母を敬え」(出エジプト20:13,申命5:16)と「父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない」(出エジプト21:17,レビ20:9)の二つです。いずれも年老いた両親を敬い配慮することを命じる律法です。律法学者たちは、その律法を神への「ささげ物」(コルバン)の誓いによって、両親に対する責任を回避することができるものとしていたのです。誓いはもちろん厳粛なものであり(参 民数30:1)、軽く扱われるものではありませんが、対立する律法を利用して、抜け道をつくることは神の意図するものではありません。

 律法学者たちは「汚れ」に対して敏感でした(汚れの本質について誤って考えていたが)。汚れた物に触るなら、また汚れた物を食べるなら汚れるとの原則のもとに生きていました。つまり、彼らは「外から人に入って来る」ものが人を汚すと考えていたのです。主はそれを否定して、外から入って来るものは「腹に入り排泄され」るだけだとし、「人の中から出て来るもの」、すなわち「心の中から」出て来るものが人を汚すと指摘されました。「心」は人の人格の中心です。その心から「悪い考え」がうまれ、その結果が、さまざまな悪しき行動や特徴となって現れるのです。主があげている十二の「悪」のリストは人の心がいかに罪に汚れているかを明らかにしています。

 律法学者たちが重視していた儀式的なきよめは、人の心をきよめるにはあまりにも無力です。私たちは罪のきよめを必要とし(Ⅰヨハネ1:7)、心が新しくされる必要があります(参 エゼキエル36:26)。それはキリストを通してのみ私たちに約束されているものなのです。

            このメッセージは2024.3.17のものです。