アビガイル 怒りをなだめる Ⅰサムエル25章

 

 怒りは神さまが私たちに与えられた感情の一つであり、いつも罪深いわけではありません(参 マルコ3:5,10:14)。しかし、私たちの怒りの多くは自分の思い通りにならないための利己的なものではないでしょうか。また正当な怒りであっても肉の思いに支配されるなら、行き過ぎた愚かな行動に走ってしまうことになります。

 今回は、「アビガイル」という一人の女性に焦点を当て、彼女がどのようにしてダビデの怒りをなだめたのかを見ていきましょう。

 まず、ダビデの怒りの理由から見ていきましょう。アビガイルの夫ナバルは、裕福な資産家であり、その地域の有力者だったと考えられます(2節)。ダビデはナバルに仕える「若者」のことばから分かるように(15,16節)、ナバルの羊飼いたちに「とても良く」していました。ダビデが怒って復讐を決意していることばからもわかります(21節「あの男は善に代えて悪を返した」)。ダビデは良くしてあげたナバルに、羊の刈り取りの「祝いの日」という喜びの日に、部下を遣わし丁寧に祝福の挨拶を述べ、謙遜に食料を求めたのです。この時ダビデは六百人の部下を抱え、サウル王からいのちを狙われ逃亡を余儀なくされていました。それで食料を必要としていたのです。しかし、ナバルはダビデが遣わした家来たちを冷たく侮辱をもって追い返しました。それでダビデは怒り、復讐を決意したのです(13節)。

 アビガイルは、夫に仕える「若者」から「わざわい」が及ぶにちがいないとの訴えを聞いたとき(17節)、「急いで」(18,23,34節)食料を準備しダビデのもとへと向かいました。24-31節の長いことばがアビガイルのとりなしです。アビガイルのことばから分かることは何でしょうか。

 まず、アビガイルは夫の無礼な振る舞い(24節「責め」28節「背き」)を、あたかも自分の罪であるかのように赦しを求めているということです。

 次に、困難な状況の中にあるダビデを理解し、神の約束をもって励ましているということです(28-30節)。彼女はダビデについて、今はサウル王から逃げなければならない状況にあるが、神の確かな守りの中にあり、やがて王となるべきお方であることを表明しています。

 次に、王となるべきお方のふさわしい行動を示しているということです(31節)。復讐がダビデの人生の汚点となり、怒りの衝動に任せた行動が後悔の種とならないように配慮しています。

 32-35節が、ダビデの応答です。彼は冷静さを取り戻していることがわかります。ダビデは、まずアビガイルを差し向け、愚かな復讐(流血の罪)をとどめてくださった「主」をほめたたえています(33,34節)。次に「アビガイル」と彼女の「判断」をほめたたえています。彼女が迅速に行動していなかったなら、復讐を遂げてしまっていたからです(33節)。

 ダビデの怒りには私たちが理解できる面があります。しかし、その怒りを残酷な「復讐」によって処理しようとしている姿から、肉の思いに支配された罪深さをはっきりと見ることができます。パウロは「怒っても、罪を犯してはなりません。・・・悪魔に機会を与えないようにしなさい」(エペソ4:26,27)と勧めています。今日、私たちの怒りを適切に処理できるようにしてくださる「アビガイル」のような存在はだれでしょうか。それは聖霊です。聖霊によって歩む中で、聖霊が私たちのうちに「柔和」という実を結ばせてくださるように。


                  このメッセージは2023.5.14(母の日)のものです。