神を恐れて生きる 伝道者の書8章1-17節

  

 伝道者の知恵を探求する思いは、この章の「私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき」(16節)ということばからも読み取ることができます(参 1:13,17,7:25)。7章において伝道者は求める知恵に到達できないことをすでに告白していました(7:23)。この章にも同様の思いが述べられています。1節には「だれか」という問いかけを繰り返し、17節では、だれも「見極めることはできない」との答えを繰り返しています(参 3:11,7:24)。7節でも「何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを、だれも告げることができない」と、人の無知を認めています(参 3:22,6:12,10:14)。

 伝道者は求めようとする知恵に到達できませんが、知恵の価値を認めて、「人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる」(1節)と述べています。顔はその人の内面を外に現すものです。知恵が、その人の心に平安や満足をもたらし「顔を輝かせ」、その人の「顔の固さ」(共同訳「顔の険しさ」)を変えることができるとしています。

 伝道者は、人の無知だけではなく人の無力さも認めて、人が支配できないものを四つあげています(8節)。一つ目は「風」(ルーアハ)です(参 1:6)。二つ目は「死」の時です。主イエスが「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか」(マタイ6:27)と言われたことが思い出されます。三つ目は兵役です。四つ目は「悪」です。悪に加担する者はその結果から最終的には逃れられないということでしょう。

 伝道者は、この書のキーワードである「空しい」(へベル)を繰り返しいます(10,14節)。それは人生の不条理を見ているからです。権力者が力を乱用して弱い者たちを苦しめ(9節)、悪者が長寿を得て(12節)、その悪に対する当然の報いを得ることがないように見えるからです(10,14節)。人生の不条理は、この堕落した社会のいたるところに見ることができることではないでしょうか。

 伝道者は、人生の不条理を見ながらも確信していることがあります。それが12節の「しかし」の後に続くことばです。神を恐れる者が「幸せ」であり、神を恐れない者に「幸せがない」ということです。伝道者は11節で「悪い行いに対する宣告(共同訳「判決」)がすぐに下されないので、人の子らの心は悪を行う思いで満ちている」と述べています。伝道者は悪に対する神の公正な「判決」が下ることを信じているのです(参 3:17, 11:9)。ただ「すぐに下されない」ために、それが悪を助長しているという現実を指摘しています。神がすぐに判決を下されないのを誤解してはなりません。それは神の忍耐であり哀れみなのです。神は悔い改めの機会を与えようとしておられるのです(参 ローマ2:3-5,Ⅱペテロ3:9)。

 伝道者はこの章でも、「食べて飲んで」と人生を楽しむことを勧めています(15節 2:24-25,3:12,5:18-19)。それは神が人の労苦に添えてくださるものだからです。神は人が自分の無知や無力さを認め、神を恐れて、与えられている今を楽しむことを求めておられるのです。


    
               このメッセージは2023.5.21のものです。