知恵とその限界 伝道者の書7章15-29節

 

 伝道者は私たちに、知恵によって歩むように勧めながらも、その知恵の限界についても言及しています。まず、伝道者が示す知恵とは何でしょうか。

 伝道者は「私は・・・すべてのことを見てきた」と述べて、人生の不条理に言及しています。本来なら「正しい人」が繁栄し長寿の祝福にあずかり、「悪しき者」が滅びることを期待したいところですが、現実はそうではないことがあるということです。伝道者は、私たちが完全ではない堕落した社会に生きていることを認識させようとしているのでしょう。

 次に、伝道者は二つの極端に陥らないように促しています(16,17節)。一つの極端は自分を「正しすぎる」また「知恵のありすぎる者」とするということです。ところで、私たちに「すぎる」ということはあるのでしょうか。伝道者は20節で、「この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は」と述べています。ですから、ここでは独りよがりの正しさ、独善に陥らないように、また知恵のある者のふりをするなという警告でしょう。主がたとえ話で語られたパリサイ人は取税人を見下し、自分を義としています(ルカ18:11)。私たちは自分の目には「梁」があるのに、誰かの目の「ちり」を取り除こうとしていることに気がつかないことがあるのではないでしょうか(マタイ7:3,4)。

 もう一つの極端は「悪すぎる」ということです。肉の思いのままに愚かな行為に耽ってはならないということです。では、私たちが先の二つの両極端に陥らずに、バランスを保って歩むためにはどうしたらいいでしょうか。それは「神を恐れる」ということです。自分を基準とするなら、たやすくバランスを失ってしまうことでしょう。

 伝道者は、知恵が優れていることを「知恵は町の十人の権力者よりも知恵ある者を力づける」と述べています(19節)。知恵は神から離れてあるものではなく、神を恐れることが知恵のはじめなのです(箴言9:10,24:5)。

 次に伝道者は、人の罪深さから生じる悪意あることばに「いちいち心を留めてはならない」と述べています(21節)。人の「ののしり」の中にも、私たちがしっかりとそれを受け止めなければならない真実が含まれていることがあるかもしれません。しかし、私たちが耳を傾けるべきは「人のことば」ではなく、神の声です。

 伝道者は、1章において知恵の探求を強く決意し、「私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た」と述べ、さらに知恵と対極にある「狂気と愚かさ」の探求をも決意していました(1:13,16-17)。この7章でも知恵とその対極にある「悪」や「愚かさ」の探求について言及しています。

 23-29節に繰り返されることばがあります。「見出す」(マーツァー 8回)と「探し求める」(バーカシュ 3回)ということばです。いずれも知的努力をあらわす動詞で、伝道者がそれを求めようとした熱意がうかがえます。しかし、伝道者はその探求に挫折しています(23,24節)。当然のことです。私たちは人間であって神ではないからです。完全な知恵を求めようとすることは、神をその御座から引き下ろし、そこに人が座ろうとすることなのです。      [続く解説は,後で説教集を見てください]


               このメッセージは2023.5.7のものです。