神は本当におられる?
神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあ-って私たちに語られました(ヘブル人への手紙1章1~節)。
「神はおられるのか、おられないのか」という神の実存に対する問いかけは、人間にとって最も重要な問いかけです。なぜなら、もし神がおられるとするならば、その神を否定して生きることは最も恐ろしい結果を意味することになりますし、逆にもし神がおられないならば、人々の信仰は虚しく、単なる安心立命のための自己暗示を意味することになります。聖書は神の実存を問いかけてはいません。「はじめに神が天と地を創造した」(創世記1:1)で始まるように、神の実存は問うまでもない明白なことであるという前提で、神がどのような方であるかを私たちに明らかにしています。
無神論者は「神がいるなら見せて見ろ。そうしたら信じるから」と言うかもしれません。神は霊ですから、人間のように「この方です」と、紹介することはできませんが、実存を信じるに足りる証拠を示すことは可能です。
まず、神がおられることは私たちの人間性を通して分かります。人間と他の動物の大きく異なる点は、人間だけが持っている宗教性(信仰心)です。それは時代や地域を超えて普遍的なものです。原始的な生活を送っている人々も、ハイテク機器に囲まれて生活している人々も多くは何らかの信仰を持っています。なぜこのように多くの宗教が存在するのでしょうか。それは、神が人間をご自身に向かう存在として造られたからです(伝道者の書3:11)。人間が持っている宗教性は神がおられることを証ししているのです。しかし、人間はまことの神に背を向けて堕落し、まことの神の代わりに多くの神々を作り出して行きました(ローマ1:21-)。「神など信じない」という人であっても、実は神に代わる何か(富や成功)を信じて生きているのです。
人間が他の動物と異なるのは宗教性だけではなく、心の中に善と悪の普遍的な基準を持っているということです(道徳性)。正しいことを是認し、誤ったことに対する責任を感じ取っています。そのような判断基準はどこから来ているのでしょうか。それは神が人間を「ご自身のかたち」に造られたからです(創世記1:27)。人間が持っている道徳性は神ご自身の本性を反映しているものなのです。
次に神がおられることはキリストを通して分かります。なぜならキリストは神のひとり子であり、神の御心を明らかにし神の目的を実現するためにこの地上に来られたからです(ヨハネ1:18)。有限な人間が無限の神をとらえることは不可能です(ヨブ11:7)。しかし、その逆は可能です。すなわち、神が人間のもとを訪れて下さり、「わたしはこういう者です」と明らかにしてくださったとするならばです。神がおられるという最も確かな答えはキリストが人間の歴史の中に入って来られて、神を啓示して下さったということなのです(ヘブル1:1-2)。