一つの福音 ガラテヤ2章1-10節

 パウロは自分が宣べ伝えている福音や宣教の働きがエルサレムの使徒たちやユダヤの諸教会から独立したものであることを主張してきました。そこで一つの疑問が生まれてきます。パウロの宣べ伝えていた福音はエルサレムの使徒たちが伝えていた福音と同じものだろうかということです。

 パウロは二回目にエルサレムに上ったときのことを証ししています。1節の「それから」(1:18,21)とは、いつから数えて「十四年」なのかについては少し意見が分かれますが、おそらく回心の時からではないかと思われます。

 パウロはこのときのエルサレム行きを神の導きによって(「啓示によって」)上ったことを明らかにし、その同行者として、「バルナバ」と「テトス」の名をあげています。

 パウロは、エルサレム行きの目的は回心から今まで続けられてきた宣教の働きが「無駄にならないように、異邦人の間で私が伝えている福音」を提示するためであったとしています。2節の「おもだった人たち」は、6節にも出てきますが、9節によると「柱として重んじられているヤコブとケファとヨハネ」たちを指していることがわかります。

 パウロがエルサレムに行ったのは、自分が伝える福音に不安をもっていたからではありません。またエルサレムの使徒たちから呼び出されたからでもありません。異邦人たちの間でもユダヤ人たちの間でも、「福音の真理」の一致が保たれないなら、その働きの実が損なわれることを危惧したからです。

 3節には、同行したギリシア人(異邦人)のテトスに割礼が強制されなかったことを述べています。そのことはエルサレムの使徒たちも救いの条件に割礼が必要ないと考えていたことを示しています。

 6節では、パウロは「先に使徒となった」(1:17)、「主だった人たち」が自分の伝えていた福音に「何も付け加え」なかったこと、すなわち同じ福音理解を持っていたことを明らかにしています。

 7節以降では、パウロはペテロと自分が同じ福音を、それぞれ異なる人々に、すなわち、ぺテロは「割礼を受けた者」へ、パウロは「割礼を受けていない者」(8節「異邦人」と言い換えられている)へ福音を神から委ねられていること、また同じ神の働きに携わっていることを認めて、ペテロたちが「交わりのしるしとして右手を差し出し」たことを証ししています。エルサレムの使徒たちによってパウロたちが一つの福音に仕える同労者と認められ、一致が確認されたことを意味しています。

 10節には、エルサレムの使徒たちがパウロに求めたことは、救いに関することではなく(交わりに関すること)、エルサレムの「貧しい人たちのことを心に留めるように」とのことでした。今回のエルサレム行きが救援の物資を届けたときのことだとするなら(使徒11:29,30)、その実践を証しする良い機会となったことでしょう。パウロの後の手紙を見るとパウロはエルサレムの貧しい人たちへの支援を忘れなかったことがわかります(参 ローマ15:25-,Ⅰコリント16:1-4,Ⅱコリント8,9章)。パウロはユダヤ人たちと異邦人たちの一体性を心に留めながら、「異邦人への使徒」(8節)としての使命を果たしたのです。貧しい者たちへの支援は、一つの福音がもたらす幸いな交わりを証しするものとなっていったことでしょう。


      このメッセージは2022.11.6のものです。