信仰による義認 ガラテヤ2章11-21節

 

 パウロは、福音が一つであり、その「福音の真理」のためには一歩も譲歩しないという姿勢を明確にしています(2:4,5)。そのことは福音の真理とは矛盾した行動をとってしまった使徒ぺテロを公然と非難したことからも伺えます(2:11-14)。そしてパウロは、ここでは福音の真理である「義認」(16,17節に、「義と認められる」という動詞が計四回)について述べています。

 ところで「義認」とは何でしょうか。法廷から借用した法律用語であり、「断罪」とは正反対の意味です。断罪するとは、誰かを有罪と宣言することですが、「義認」とは「義」(正しい)と宣言することです。神が罪人を「義」(正しい)と認めてくださることです。

 パウロは義と認められる方法の二つを対比させています。一つは「律法を行うことによって」、もう一つは「キリストを信じることによって」です(16節)。ユダヤ人たちやガラテヤの諸教会を動揺させていた者たちは、「律法を行なうこと」によって義と認められると主張していました(参 ローマ9:32)。しかし、パウロはその方法では誰ひとり神の前に義と認められないと主張しています(参 詩篇143:2を引用しつつ)。そして、律法を知らず、それを無視して生きている「異邦人のような罪人」ではないと自負するユダヤ人も例外ではないとしています。なぜなら、律法が要求する基準を完全に満たすことができる者はいないからです。人間同士を比較するなら、あの人は良い人、あの人はひどい人ということになるかもしれません。しかし、私たちの心の中を正確にご存じのお方の前に、自分の正しさを主張できる者は誰もいないのです。

 多くの人は、良い行ないを積み重ねることによって神に受け入れられると考えているかもしれませんが、人間の罪深さ(堕落)を正しく理解していません。神が罪人を義と認められるのは信仰によってのみなのです。「キリストを信じることによって義と認められる」ということは、「神の恵み」以外の何ものでもありません(参 ガラテヤ5:4)。もし行ないによるなら「キリストの死」は必要なかったということになるでしょう(21節)。

 パウロは義認の教理から生じる批判を想定して、それに反論しています。つまり、行ないとは別に信仰によって義と認められるならば、罪の中に留まっていてもよいのではないか、そしてキリストは罪を容認し、助長する者になるのではないか、という批判です。それに対してパウロは「決してそんなことはありません」と否定し、信仰によってキリストと結び合わされた者(キリストとの結合)は、キリストと共に古い自己は死んだと見なされ、キリストにあって新しい歩みをする者となっていることを述べています。

 パウロはその新しい「私」を二通りに描写しています。一つはキリストがうちに住む「私」とキリストに信頼して生きる「私」です(20節)。キリスト者の新しい生き方はキリスト者のうちに内住するキリストによって可能ですが(参 コロサイ1:27)、一方においては愛の故に自身をささげてくださった「御子」(キリスト)に対する信仰の応答によります。


 主イエスのたとえ話に、パリサイ人と取税人の二人が登場します(ルカ18:9-14)。人間的に比べるなら、パリサイ人の方がはるかに正しい生活を送っていたことでしょう。しかし、主は取税人の方が「義と認められ」たと言われました。取税人は自らの罪深さを認めて、神にただあわれみを求めたからです。彼は信仰によって義と認められたのです。義認が信仰によるなら恵みです。私たちには何一つ誇るべきところはありません。

                 このメッセージは2022.11.13のものです。