宣教開始への備え マルコ1章1-13節
1章1節「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」は、マルコの福音書全体の表題(タイトル)としても、また2-13節のプロローグの導入句としても理解することができるしょう。
「神の子」という呼称は、父なる神によって(1:11,5:7)、主イエスの正体を知る悪霊たちによって(3:11,5:7)、また異邦人である百人隊長によって(15:39)用いられています。「イエス」は、御使いがヨハネやマリアに名付けるように言われた名前であり(マタイ1:21,ルカ1:31)、「主は救い」という意味です。「キリスト」とはヘブル語の「メシア」に相当する語であり、「油注がれた者」という意味です。「イエス・キリストの福音」とは、「イエス・キリストについての福音」という意味に理解するのがいいでしょう。ローマ1章2-3節に「福音は、・・・御子に関するものです」とあるとおりです。「福音」(「良い知らせ」)と「イエス・キリスト」を切離すことはできません。
2-13節には、三つの事が記されています。一つは主イエスの宣教開始の備えをした人物である「バプテスマのヨハネ」について(2-8節)、後の二つは、主イエスの宣教開始の備えの出来事となった「主イエスのバプテスマ」(9-11節)と「主イエスの荒野の試み」についてです(12-13節)。
マルコはバプテスマのヨハネの出現について、旧約聖書を引用して(出エジプト記23:20、マラキ3:1、イザヤ40:3)その出現は旧約聖書の成就であり、神のご計画に基づくものであることを示しています。
6節の「らくだの毛の衣を着て、腰に皮の帯を締め」というヨハネの格好は旧約の預言者エリヤを彷彿とさせます(参 Ⅱ列王1:8)。旧約にはメシアの来臨の前にエリヤが遣わされると預言されていました(マラキ4:6)。主はバプテスマのヨハネが、そのエリヤの再来であると言われており(9:13)、ヨハネの父であるザカリヤへの御使いの告知の中でも「エリヤの霊と力で」(ルカ1:17)と「エリヤ」に言及されています。
ヨハネは人々に神の裁きが差し迫っていることを強調し(参 マタイ3:7-、ルカ3:7-)、「悔い改め」(メタノイア:「心を変える」という意味)を説きました。そして悔い改めた者たちは彼から「水のバプテスマ」を受けました。ヨハネの使命について、ルカの福音書には「主のために、整えられた民を用意します」(1:17)とあり、使徒の働きでは、「ヨハネは、自分の後に来られる方、すなわちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです」(19:4、参 ヨハネ1:7)とあります。
ヨハネは、自分と自分の後から来られる方(主イエス)とを比較して、自分がいかに劣り、来られる方が偉大な方であるかを告白しています(7,8節)。
ヨハネはキリストの先駆者として、人々がキリストを受け入れる事ができるように備えさせるために神から遣わされた人物です。その彼が人々をキリストに備えさせるためにしていることは何でしょうか。それは「罪と向き合わせている」ということです。だれも自分の罪と向き合うことは快いものではありません。しかし、「良い知らせ」(福音)に応答するためには、「悪い知らせ」が何かをしっかり理解する必要があります。私たち個人をはじめ社会の様々な悲惨な現実が罪に起因していること、また罪に対する神の裁きがあることを知らなければ、罪からの救い主を必要としていることを理解できないのではないでしょうか。
[主イエスのバプテスマと主イエスの荒野の試みについては省略します]
このメッセージは2023.11.12のものです。