罪と向きあう(2) ダビデ Ⅱサムエル11,12章


 今回は、ダビデ王が罪とどのように向きあったのかを見ていきましょう。ダビデ王がどのような罪を犯し、なぜそのような罪を犯したのかの説明はここでは省略します(罪:姦淫と殺人、原因:権力者の傲慢)。

 ダビデとバテ・シェバに子どもが生まれてからのことです(11:27)。神はダビデが自分の罪と向きあうことができ、人生を取り戻すことができるように、ご自身の預言者であるナタンを遣わされました(12:1)。私はナタンが果たした役割は小さくないと思っています。そして王に対する彼のアプローチは実にみごとです(12:1-7)。なぜなら、ダビデに警戒心を全く抱かせることなく、ダビデ自身に自分の罪を裁かせているからです。ナタンは、ダビデが断罪した貪欲で非情な「富んでいる人」とはまさに自分のことであると分かるように導いているのです。ダビデは、ナタンを通して自分の罪人の姿を映し出す鏡を見せられたと言い換えていいでしょう。

 ナタンはダビデに対して、彼の王朝と彼の家族にどのような災いが起こるかを宣告しなければなりませんでした(12:10-12)。ダビデはそれを聞いて、「私は主の前に罪ある者です」と告白しています(12:13,参 詩篇32:5)。ダビデは、自分はバテ・シェバやウリヤに対して罪がないと言っているのではありません。罪を、神との関係で本質的に捕らえているのです(参 詩篇51:3-4)。もしダビデが神との正しい関係を見失うことがなかったなら、姦淫や殺人という罪を犯すことはなかったでしょう。神の前にひとり自分の罪と向きあおうとするなら、主イエスが語られた取税人のように「罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)という告白に導かれるのではないでしょうか。

 ダビデはナタンを通して赦しの言葉をいただきます(12:13)。そこに真の悔い改めがあったからです。そのことは、言い訳や弁解をせず、自分の罪を認め、へりくだって神の宣告(主権)を受け入れ、神を礼拝しているダビデの姿から見出すことができます(12:20)。 

 私たちが抱える罪を何かによって償えると考えているなら罪を過小評価しているのです。確かに、多くの人は刑務所に入るような罪を犯すことはないかもしれません。しかし、同じ罪を犯す可能性を持った堕落した存在なのです。神はその私たちの罪を赦すための道を備えてくださいました。神はご自身のひとり子(キリスト)の犠牲によって罪の赦しを私たちに約束してくださっているのです。赦しは神の恵みなのです(参 エペソ1:7)。

 今日、私たちのもとに預言者はやってこないでしょう。しかし、聖霊が神のみことばを通して「あなたがその男です」と、その罪を指摘されるなら、素直に罪と向きあい、神の赦しを求めて、新しい一歩を踏み出しましょう。聖書は「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける」(箴言28:13)と約束しています。



      このメッセージは2023.10.22のものです。