舌を制御する ヤコブ3章1-12節

 
 ヤコブはここで、「舌」(言葉)の問題を取り上げています。私たちにとってとても身近な問題であり、また聖書において多く取り上げてられている問題でもあります。パウロは「陰口」や「中傷」を罪のリストにあげ(ローマ1:29)、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要な時に、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい」(エペソ4:29)と命じています(参 Ⅰペテロ3:10)。

 ヤコブは、舌の問題を取り上げるに際して「多くの人が教師になってはいけません」と命じることからはじめています。「教師」は、Ⅰコリント12章28節では「使徒」や「預言者」の次に出てくる重要な存在です。「教師」は、ユダヤ社会における「ラビ」にほぼ相当し、尊敬されていたことでしょう。ヤコブは神からの召しと賜物がある者に「教師となるな」と言っているわけではありません。責任の重さを理解せず、軽率で不純な動機から教師になろうとする者たちを戒めているのです。

 3,4節では、小さな「くつわ」によって馬を、また小さな「舵」によって大きな船を思い通りにコントロールできる事実を用いて、「同じように」(5節)と、そのことを「舌」に当てはめています。そして、小さな「舌」が制御不能になるなら大きな災害をもたらすことを火事のイメージによって説明し、6節では舌が制御不能になったときの危険性を説明しています。

 7,8節では、人が制することができるもの(動物たち)と制することができないもの(舌)を対比させ、「舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています」と説明しています(参 ローマ3:13,14)。

 9,10節では、同じ舌をもって、神を賛美しその一方で人間を呪うようなことがあってはならないと命じています。そして、一貫性のある舌の用い方を説明するために、「泉」や「果樹」や「水」を例にあげて、自然界においては一貫性があるではないかと、問いかけを繰り返しています。

 ヤコブは、私たちに舌を制御することが非常に困難であることを認めながら、その舌を制御し、良い関係を築くように願っています。私たちが舌を神の御心にかなった用い方をするためにはどうしたらいいでしょうか。一つ目は、舌(言葉)の大きな影響力を理解するということです。二つ目は、「舌」の問題は「心」の問題であることを理解することです。主イエスは「心に満ちていることを口が話す」(マタイ12:34)と言われました。私たちの心が高慢になり誰かを見下しているなら、憎しみや怒りで満ちているなら、また不平不満で満ちているなら、きっとそれにふさわしい言葉が口からもれてしまうのではないでしょうか。ですから、新しくされた心が必要なのです。そのためにはキリストを信じ、神に立ち返ることが必要であり、さらに神との正しい関係を維持する必要があります。そのためには悔い改めが不可欠でしょう。また、話す相手をどのように見るか、という視点も大切です。ヤコブは「神の似姿に造られた人間」(9節)を呪うことは不適切であり、ふさわしくないとしています。人は罪によって堕落しましたが、依然として「神のかたち」(参 創世記1:27,9:6)を完全に失ったわけではありません。神が人を尊厳ある存在としてお造りになられたという視点を見失わないことが大切です。最後に、詩篇の作者のように「主よ 私の口に見張りを置き 私の唇の戸を守ってください」(141:3)との祈りが必要ではないでしょうか。


このメッセージは2023.9.3のものです。