信仰と行い ヤコブ2章14-26節

 14-16節でよく繰り返されている言葉が二つあります。一つは「信仰」で、11回出てきます。もう一つは「行い」で、14回出てきます。そして「信仰」と「行い」が一緒に出てくる箇所が10回に及びます。ヤコブは「信仰」と「行い」との関係をどのように理解しているのでしょうか。

 ヤコブは今回の箇所で、「行いのない信仰」を「役に立たない」(14,16節)「死んでいる」(17,26節)「無益」(20節)と厳しい言葉で指摘しています。「行いのない信仰」というと、愛の足りなさを覚えているキリスト者は自分のことのように感じるかもしれません。しかし愛の足りなさから、自分は本当に救われているのだろうか、と疑うことをヤコブが望んでいるわけではありません。

 ヤコブが念頭においているのは、「自分には信仰があると言って」(14節)いる口先ばかりの信者であり、真理に対して知的同意以上のものを持っていない信仰です(本来、それは真の信仰とは言えない)。その極端な例として、「悪霊ども」をあげています(19節)。彼らは知的には「神は唯一」(申命6:4)であるという真理に同意しています。しかし、彼らは神を人格的に信頼したり、神に従順であろうとは思っていません。

 ヤコブは同信のキリスト者が生活に非常に困っている状況を想定して、もしそのような人に具体的な支援をしないなら、そのような信仰は役に立たず、死んでいると言っています。ヤコブは「信仰」には「行い」が不可欠であり、両者を切り離せないものと理解しているのです。18節のかぎ括弧の言葉は、ヤコブの理解に反対して「信仰」と「行い」を切り離そうとする者の言葉を引用しているものと思われます。

 ヤコブは「信仰」を「行い」によって証明した旧約聖書の「アブラハム」(21-23節)と「ラハブ」(25節)をその例にあげています。ヤコブは両者について「行いによって義と認められた」と述べて、24節では「人は行いによって義と認められる」としています。このような言葉を読むと、「信仰によって義と認められる」と強調しているパウロとヤコブが対立しているように思ってしまうかもしれません(参 ローマ3:28,5:1,ガラテヤ2:16)。しかし、パウロとヤコブには不一致はありません。「義とする」(ディカイオオー)という言葉の使い方がパウロとヤコブでは違うのです。パウロは「回心」において、神が「罪人」を信仰によって義(正しい)と宣言してくださるという意味に用いています。罪人が神との正しい関係に「行い」によって入ろうとするなら完全な行いが要求されます。もしそうなら、だれが「行いによって」義と認められる(救われる)でしょうか。誰もいません。だからパウロは、救いは「恵み」であり、「信仰による」と強調しているのです(エペソ2:8)。一方ヤコブは、みこころにかなった「行い」という事実に基づいて神がアブラハムやラハブを正しいと宣言されたという意味で使っているのです。つまり、アブラハムやラハブはその信仰を「行い」によって証明したということなのです。

 パウロはヤコブと同様に信仰と「行い」を切離してはいません。信仰によって神との正しい関係に入った者が、その神との正しい関係の中で生活が変えられ、神の御心に従順に従っていこうとすることは当然のこととしています(参 ローマ1:5,ガラテヤ5:6)。イエス様も「信仰」と「行い」を切離してはいません(参 マタイ7:21,25:31-46)。

 「行い」は救いの手段とはなりえません。しかし信仰は、行いによって証明され、また「行いとともに働き」(22節「信仰」と「行い」には相互性がある)、完成へと向かっていくのです。


                  このメッセージは2023.8.27のものです。