神のことばへの応答 ヤコブ1章19-27節

 

 今回の箇所には、「みことば」(21,22、23節)、「律法」(25節)ということばが出てきます。ここでの「律法」は、文脈からみて「みことば」と同義語として用いられているでしょう(Morgan,p.118)。

 ヤコブは、キリスト者の霊的誕生(18節 みことばによる新生)から救いの完成に至るまでの間で、神のことばに対してどのように応答すべきかを、「種」(21節「植えつけられたみことば」)や「鏡」(23節)の比喩を用いて説明しています。

 さて、ヤコブは神のことばに私たちがどのように応答するように命じているのでしょうか。

 一つ目は、神のことばを「聞く」ということです。ヤコブは「聞くだけの者」(22節)を批判していますが、「聞く」ことが不要だと言っているわけではありません。もし、神のことば(福音)を聞くことがなかったなら、私たちは誰も救い(霊的な誕生)にあずかることはできなかったでしょう。パウロは「信仰は聞くことから始まります」(ローマ10:17)と述べています。マリヤは「主の足もとに座って主のことばに聞き入ってい」ましたが、主はいらだつマルタに「マリヤはその良いほうを選びました」と弁護しておられます(ルカ10:38-42)。

 二つ目は、「心に植えつけられたみことばを素直に受け入れ」るということです(21節)。ヤコブは、私たちが心をオープンにしてみことばを受け入れる前に「すべての汚れやあふれる悪を捨て去」ることを求めています。「捨て去る」(アポティセーミ)とは「脱ぎ捨てる」(エペソ4:22)とも訳すことができることばです。パウロは、クリスチャンになる前の古い行動パターン(古い人)を捨て去ることにそのことばを用いています。霊的に新しく誕生した者(18節)が、罪の中にとどまりながら、しっかりと神のことばを心に根付かせることはできないでしょう。そして、ヤコブが「あなたがたの魂を救うことができます」と言っているのは、文脈からみて回心の時の救いではなく、終末における救いの完成の意味に理解した方がいいでしょう。

 三つ目は、神のことばを「行う」ということです(22,25節)。ヤコブは「行う人」は「その行いによって祝福されます」と述べています。正確に沢山の暗証聖句ができる記憶力は素晴らしいことですが、ヤコブは何を知っているかではなく、何をするかが大切だと言っているのです。

 ヤコブは「自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません」と注意を促しています。聞くことだけで満足して、多くの聖句を知っているから、あたかも自分が霊的に成長していると勘違いしているなら、「自分を欺いて」いるのです。

 ヤコブは「みことばを聞いて行わない人」を、「自分の生まれつきの顔を鏡でながめ、・・・すぐに忘れてしま」う人にたとえています(23,24節)。神のことばは私たちの霊的な状態を映し出す鏡のようなものです。それによって自分の現状を知り、どう変わらなければならないかがわかります。変えようとする前にすぐに忘れるなら、いつまでたっても変化は期待できないでしょう。

 クリスチャンの霊的な成長には個人差があるでしょう。しかし、霊的成長の度合いに大きな違いがあるとするなら、個々のクリスチャンが神のことばに対してどのように応答しているか、ということではないでしょうか。


         このメッセージは2023.8.13のものです。