試練と誘惑 ヤコブ1章12-18節
ヤコブが試練に対してクリスチャンたちに期待しているのは「忍耐」です(2-4節)。そのことは12節の試練に「耐える」人は「幸いです」(参25節「祝福されます」)とのことばにも見ることができます。
先に「試練」と訳された「ペイラスモス」は「誘惑」とも訳されることばであることを説明しました(「試み」とも訳されている)。ヤコブは、13,14節で「ペイラゾー」という動詞を繰り返して、「誘惑」について正しい理解を持つようにと願っています。「試練」に対して「忍耐」という正しい対応をするならそれは祝福となりますが、そうでないなら同じ状況が「誘惑」となってしまうからです(参 創世記22章 アブラハムの試練)。だからと言って、だれも誘惑の責任を神のせいにすることはできません。なぜなら、神は「だれかを誘惑する」ことのないお方だからです。
「ペイラスモス」は、クリスチャンの信仰をためし、人格的な成長へと導く「試練」となるのか、それとも罪へと誘う「誘惑」となるのか、私たちの対応によって決まる面があるということなのです。ですから、クリスチャンは「試練」と「誘惑」をしっかりと見分け、それぞれにふさわしい対応が必要なのです。
ヤコブは神に誘惑の責任がないのなら、どこに責任があると言っているのでしょうか。「誘惑」というと、多くの人は「悪魔の働きだ」と言うでしょう。確かにそれは事実ですが、ヤコブがここで強調しているのは、私たち人間の責任です(たとえ悪魔であっても私たちの最終的な同意なしに罪を犯させることはできない)。ヤコブはここで「欲」(エピスミア)という言葉を用いています。良い意味でも用いられる言葉ですが(参 ルカ22:15,ピリピ1:23)、ここでは「罪に傾く人間の堕落した心の傾向」という悪い意味で用いられています。
ヤコブは私たちが誘惑されて罪に至る過程を、釣りや出産のイメージを用いて興味深く描写しています。それに関して、チャールズ・スウィンドル師がある本の中で解説している文章を少し紹介してみましょう。
第一段階 誘いのえさが目の前に落ちてくる。
第二段階 心の欲望が、その誘いに引きつけられる。
第三段階 私たちが同調するとき – そのえさにかみつくとき – 罪が生じる。
第四段階 罪は思いがけない結果をもたらす。つまり、つり上げられ、調理されるという結末を迎える。
よく使われるたとえに、「鳥が頭上を飛ぶことを止めることはできなくても、髪の中に巣を作ることを止めさせることはできる」というのがあります。誘惑されることは罪ではありません。悪の思いがよぎることは罪ではありませんが、その思いを温めるようになるとやがては罪に至るでしょう。さまざまな欲求(食、性、知識など)があることは罪ではありませんが、その欲求を間違った、神が望まれない方法で満たそうとするなら罪となります。そして、その罪は神との関係を損なう(「死」ローマ6:23)ことになるのです。しかし、神は私たちが誘惑に打ち勝つために新しいいのちを与えてくださり(18節)、聖霊とみことば(ガラテヤ5:16,詩篇119:11)、祈り(ルカ22:40,46)、信仰の仲間(Ⅱテモテ2:22)を与えてくださっています。そのことを忘れないようにしましょう。
このメッセージは2023.8.6のものです。