試練と知恵 ヤコブ1章2-11節

 
 ヤコブは挨拶の後、「私の兄弟たち」と呼びかけています(2節)。同じ神から霊的に誕生した神の子どもの一人として、仲間の兄弟たちに親しみをこめて手紙を書きはじめています。

 その後、唐突ともいえる形で「様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい」と命じています。「様々な試練」ですから、ある特定の「試練」だけが想定されているわけではありません。迫害、貧しさ、病気、人間関係、仕事など、あげればきりがないでしょう。「試練」とはだいたい辛く苦しいものです。それを「この上もない喜びと思いなさい」とは、いったいどういう精神状態なのでしょうか(マタイ5:12 主イエスは迫害に対して「喜びなさい」「大いに喜びなさい」と命じている)。

 「試練」(ペイラスモス)をどのように受け止めるか、ということは非常に大切です(参 Ⅰコリント10:13,Ⅰペテロ4:12)。なぜなら、私たちの人生には多くの試練が存在するからです。もしも「試練」を、「神が自分のことを気にかけておられないからだ」、また「神は私を怒っておられ、罰しておられるのだ」と受け止めるなら、とても喜ぶことはできないでしょう。

 辛い苦しい状態そのものを喜びとすることは困難でしょう。しかし、そこに神の確かな目的があることが分かるなら、少し新しい視点が見えてくるのではないでしょうか(目的のないただの苦しみは辛い)。


  パウロは「肉体のとげ」の苦しみを抱えていました。結果的にはその「とげ」は取り去られませんでしたが、彼は「喜んでいます」(Ⅰコリン12:10)と言っています。そこに神の目的があることが分かったからです。

 ヤコブは「試練」を私たちの「信仰を試す」ものとして、そこから「忍耐が生まれ」、「忍耐を完全に働かせ」るなら、「何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な者」となると述べています。つまり、ヤコブは試練の目的を神が私たちの人格的な成長を意図しておられるのだ、と述べているのです(参 ローマ5:3-5,Ⅰペテロ1:6,7)。

 ある牧師が、「神は私たちを変えるためにしばしば苦痛を用いられる。過去20年間で、私が牧師として人々との関わりの中から確信させられたことは、もし悩みや苦しみがなければ、ほとんどの人間は、内面を深く正直に見つめるような大変な作業をしない、ということだ」と述べています。苦しい外圧がなければ、なかなか私たちは自分を変えようとしないというのが本当のところではないでしょうか。

 5節でヤコブが、寛大に「与えてくださる神」に知恵を「求めなさい」と命じている理由は(6-8節では、どのような信仰をもって求めるべきかを説明)、試練を正しく受けとめ、それを喜びと思うことができるようになるためには、神が与えてくださる「知恵」(試練に対する正しい洞察)が必要だからです。私たちは「知恵」を年齢や経験、また賢さや成功と結びつけて考えがちですが、ヤコブは「知恵」を私たちの人格がキリストに似た者となることと結びつけているのです(参 ヤコブ3:17)。ここで私たちが求めるように命じられている「知恵」は、テスト勉強をしなかった学生が、試験の当日の朝に今日受けようとしている試験問題がよく解けるようにと願うような種類の知恵とは違うということなのです。


        このメッセージは2023.7.30のものです。