不確かさの中を生きる 伝道者の書11章1-10節

 

 11章に入ると二人称が多くなり、いくつかの命令とともにその理由が示されています(1,2,6,10節)。そして、「知らない」(2,5,6)ということばが四回繰り返されています。私たちが先のことを「知らない」ということは、私たちの人生につきまとう「不確かさ」を示しています。不確かさは私たちに恐れや不安をもたらしますが、伝道者は、悲観的に、また消極的にならないで生きるように促しています。

 伝道者はまず(1節)、「あなたのパンを水の上に投げよ」と命じています。いくつかの解釈が考えられます。一つ目は、海上貿易の勧めです。「パン」は商品を指し、「投げよ」を「送り出せ」と理解します。当時の海上貿易にはいろいろなリスクがありましたが、その貿易によって富がもたらされました。二つ目は、施し(慈善行為)の勧めです。これはユダヤ人たちの伝統的な解釈です。見返りを期待してするわけではありませんが、寛大な行為が「後の日」に報いられるということはあるでしょう(参 箴言19:17)。三つ目は、宣教の働きへの適用です。「パン」を神のことばと考えて、神のことはを蒔くことは一見無駄な行為のように見えるかもしれないが、後の日にその結果を見出すということです。

 伝道者は次に(2節)、「あなたの受ける分を七、八人に分けておけ」と命じています。1節の解釈に関連していると考えるなら、海上貿易において、すべてを一度に失うことがないようにリスクの分散を命じていると解することができるでしょう。また、施しに関連していると考えるなら、分かち合いが「わざわい」への備えとなるという意味に解することができるしょう。

 伝道者は、3、4節で人の無力さとともに、不確かさが私たちを悲観的に消極的にしてしまうことを指摘しています。私たちは雨風を制御することはできません。ですから、リスクを想定することは賢明なことでしょう。しかし、そのリスクを過大に考えてしまうと行動することができなくなってしまいます。風の強い時に種を蒔くなら、せっかくの種が吹き飛ばされていまいます。雨の日は刈り入れには適していないでしょう。しかし、理想的な状況が整うのを待っていたなら、その機会を失ってしまうということもあるでしょう。

 主イエスがお話しになった「タラントのたとえ」(マタイ25:14-)で、1タラントを預かったしもべは何もせず、そのお金を地中に隠しました。彼は失うリスクを恐れたからです(その恐れは主人に対する誤った理解に基づいている)。人生において、どのようなリスクがあるかを想定することは必要です。しかし、いつも最悪ばかりを想定するなら、悲観的になり、行動することをためらってしまうことになるのではないでしょうか。

 伝道者は次に(6節)、「朝にあなたの種を蒔け、夕方にも手を休めてはいけない」と命じています。なぜでしょうか。種を蒔かないなら収穫(成功)はないからです(参 ガラテヤ6:9)。また、多くの収穫を得ようとするなら多くの種を蒔く必要があるからです。ただ人生には不確かさがあり、両方ともうまくいかないケースが全くないわけではありません。

 なすわざの成功は神の恵みによるという謙虚さが必要でしょう。その一方で人がなすべきことをした結果であることも事実なのです。伝道者は私たちにリスクを恐れないで積極的に生きるように励ましています。私たちは多くのことを「知らない」としても、「一切を行われる神」(5節)は、そのすべてのことをご自身の御手のうちに治めておられるお方です。不確かな人生だからこそ、そのお方を信頼して歩んでいきましょう。


                 このメッセージは2023.6.25のものです。