神を恐れて生きよ 伝道者の書12章1-14節
フランスの画家ポール・ゴーギャンがタヒチで描いた大作(141㎝×376㎝)に「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」というタイトルの絵画があります。右端に赤ちゃんが描かれ、左端には老婆の姿が描かれ、全体の色調はとても暗く死を意識した様子が読み取れます。人間という存在に対する本質的な問いかけがそこにあります。
私たちは伝道者の書の最後の章へとやってきました。伝道者はこの地上の人生の最後である「死」に私たちを何度も向き合わせ、今をどのように生きるのかを示してきました。人間という存在を中心にして人生の目的や意義を見出そうとするなら、伝道者のように「空しい」という言葉を連発しなければならないでしょう。では、空しくない生き方をするためにはどうしたらいいのでしょうか。その答えは「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」という言葉に見出すことができます。「覚えよ」とは、「心に留めなさい」(申命8:18)ということです。「若い日に」というのは、「若い日」は束の間であり、神の与えてくださる人生という賜物を楽しむことができない、死にいたる老いがやって来るからです。
先のゴーギャンの問いかけに対する答えを見出していきましょう。まず、私たちはどこから来たのでしょうか。単なる偶然の存在なのでしょうか。伝道者は「創造者」ということばを使うことによって、私たちが神によって造られた者であり、その創造者によってこの地上にやって来た者であることを述べています。もし私たちが偶然の存在なら目的を見出すことはできないでしょう。人の存在は創造者に依っているので、創造者を離れては真の目的や意義を見出すことはできないのです。
次に、私たちは何者なのでしょうか。有名な賛美歌「アメージング・グレース」を作詞したジョン・ニュートンは、人生の終わりに「私の記憶は薄れつつあるが二つのことをはっきり覚えている」と言っています。「私はひどい罪人(great sinner)であり、キリストは素晴らしい救い主(great Savior)である」と。神によって造られ、本来神と共に生きるべき人は神に背き、罪によって堕落してしまいました。私たちは伝道者が「空しい」と連発する不条理や不確かさに満ちた社会に生きていますが、その一方でキリストがご自身を犠牲にしてくださったほどに、私たちは愛されている存在なのです。キリストを通して罪赦され神に立ち返ることができ、神とともに歩むことができることは何と幸いなことでしょうか。
最後に、私たちはどこに行くのでしょうか。伝道者は肉体が「ちりに帰り」、「霊はこれを与えた神に帰る」(7節)と述べています。神によって霊を与えられた私たちは、最終的には創造者の御手に帰るのです。
伝道者は、この書の結論部分で(13,14節)、「神を恐れよ。神の命令を守れ」と命じ、「これが人間にとってすべてである」と述べています。なぜなら、私たちはこの地上の生に対して神に責任を負っている者だからです。神は私たちが、ご自身との正しい関係を見失うときに、たやすく人生の方向性を見失い、他者との関係をそこなってしまうことをご存じなのです。だから「神を恐れよ。神の命令を守れ」と命じているのです。
私たちはかつてないほどの多くの情報に囲まれて生活しています。だからこそ、いろいろな情報に振り舞わされることなく、人にとって何が一番大切なことなのかを心に留めながら、今を生きる必要があるのです(参 申命10:12-13,ミカ6:8)。
このメッセージは2023.7.2のものです。なお、伝道者の書(計14回のメッセージ)のさらに詳しい要約は、長野聖書バプテスト教会説教集『神を恐れて今を生きよ』(B5版、34頁)にまとめられています。