肉のわざと御霊の実 ガラテヤ5章19-24節

 パウロはガラテヤのキリスト者たちのうちに「キリストが形造られる」ことを願っていました(4:19)。それは彼らのうちに「御霊の実」が結ばれることを願っていたと言い換えてもいいでしょう。なぜなら、御霊の実はキリストのうちに見いだされるものだからです。

 パウロはキリスト者のうちの「肉」と「御霊」が、それぞれ相反する生き方へと導こうとしている葛藤を説明しています(17節)。「肉が望むこと」(17節)とは「肉のわざ」(19-21節)を成し遂げることです。一方「御霊が望むこと」とは、「御霊の実」(22,23節)を結ぶことです。パウロはそれぞれのリストをあげたあと、「このようなことをしている者たちは神の国を相続できません」と「このようなものに反対する律法はありません」と対照して結んでいます。

 「肉のわざ」は「明らかで」、身近なものであり、ほとんど説明の必要のないものとして、十五の罪をあげています。「そういった類のものです」という言葉から十五がすべてではなく、代表的なものをあげていることが分かります。

 「肉のわざ」(十五の細かな説明は別紙の資料を見てください)は四つに分類することができるでしょう。「淫らな行い、汚れ、好色」は性に関する罪です。「偶像礼拝、魔術」は宗教に関する罪です。「敵意」から「ねたみ」の八つは人間関係を破壊する社会的な罪です。最後の「泥酔、遊興」はお酒に関する罪です。偶像礼拝をはじめ性的不道徳や飲酒に関する罪は異邦人世界を特徴づける罪でした。

 ガラテヤのキリスト者たちにとって、罪についての警告を受けるのは今回が初めてのことではありませんでした。パウロの「このようなことをしている者たちは神の国を相続できません」とは(Ⅰコリント6:9,15:50,エペソ5:5)、信仰による救いを否定するものではありません(「行い」によって誰も神の国を相続できる者はいない)。「肉」が残存しているかぎり、残念ながら私たちは回心後も多くの罪を犯す可能性を持っている者です。ここでの意味は、悔い改めの思いもなく習慣的にこのような罪に耽っている者たちへの警告なのです。

 「御霊の実」(九つの細かな説明は別紙の資料を見てください)の「実」(カルポス)は単数であり、一つの実の九つの側面と理解できるかもしれませんし、また最初にあげられている「愛」という実の、八つの側面と理解できるかもしれません(参 Ⅰコリント13:4「愛は寛容であり、愛は親切です」)。九つはそれぞれ意味が重なるところがあり、「肉のわざ」に対応している点もありますが、分類することは難しいでしょう。

 「御霊の実」の結びの、「このようなものに反対する律法はありません」は、御霊の実は律法の要求を満たすものであり(参 ローマ13:8,10)、だれもそれを批判することができないからでしょう。

 だれも自分で「御霊の実」を結ぶことはできません。なぜなら「御霊」が私たちのうちに結ばせてくださる実だからです。16節には「御霊によって歩みなさい」、18節には「御霊によって導かれている」、25節には「御霊によって進もうではありませんか」という勧めがあります。それらには細かな違いはあるでしょうが、本質的には同じことです。御霊の導きとご支配の中で、御霊はそれらの麗しい実を結ばせてくださるのです。


                   このメッセージは2023.1.29のものです。