御霊によって歩みなさい ガラテヤ5章13-18節

 ガラテヤ人への手紙の重要なテーマの一つは「自由」です。かつては「律法の下」(参 3:23,4:5,21)にあって奴隷状態であった者をキリストが自由にしてくださったのです。パウロがガラテヤのキリスト者たちに「兄弟たち」と呼びかけ、「あなたがたは自由を与えられるために召されたのです」(13節)と言っています。「召された」ということは、自由は自分の力で勝ち取ったものではなく、神のあわれみ深い主権によって与えられたものであることを意味しています。パウロはガラテヤのキリスト者たちが「律法の下」に逆戻りすることを危惧していただけではなく、その自由を無責任な乱用から守るために、その自由がどのようなものであるかを明らかにしています。

 まず、それは肉の欲望を満足させるような自由ではありません(13節)。「肉」ということばがこの後も何度も出てきますが(16,19,24節)、私たちの骨格を覆っている肉のことではなく、悪に陥りやすい傾向、堕落した(自己中心の)性質のことです。利己的になって好き勝手することは、一見自由のように見えますが本当の自由ではありません。それは「放縦」であって、もっとおそろしい形の束縛であり、自分の欲望の奴隷になることに他なりません。

 次に、それは「愛をもって互いに仕え合う」自由です。15節には「愛をもって仕え合う」こととは正反対の姿が出てきます。ある人はそれについて、獣が獲物に食らいつき、それを引き裂き、最後には食い尽くす経過を描写しているとコメントしています。私たちに与えられている自由は、誰かを利用したり、踏み台にしたり、搾取したりする自由ではなく、真の信仰から生じた愛をもって仕え合う自由なのです。

 最後に、それは律法を無視する自由ではなく、律法を成就する自由です(14節)。パウロは旧約のレビ記19章18節を引用して、隣人を自分自身のように愛することは、律法全体を成就することになると言っています(参 ローマ13:8,10)。「律法の下」から自由になるということは、律法を無視することではありません。

 私たちが愛をもって互いに仕え合うために必要なのは、「律法の下」に逆戻りすることではなく、「御霊によって歩む」ということです。パウロは、「肉」と「御霊」(聖霊)を対比させて、両者が相反する生き方へと導こうとしていることを教えています(17節)。

 「律法」(「~しなさい、・・・してはいけない」、という規定)には肉を抑制する力はありません(参 ローマ8:7)。律法は、自分の命令を守らせようと棍棒を振り上げている厳しい主人にたとえることができるかもしれません。そのような主人のもとで、だれが本当の意味で互いに愛をもって仕え合うことを学ぶでしょうか。

 肉を抑制する力はキリスト者のうちに内住する聖霊にあります(参 3:2,5,4:6)。なぜなら聖霊は、律法のように外圧によって私たちを変えようとするのではなく、私たちのうちに神の愛を注いでくださり(ローマ5:5)、私たちが内側から変わることができるように働いてくださるからです(参 Ⅱコリント3:18)。「律法の下」(18節)に逆戻りするのではなく、聖霊のご支配と導きによって歩んでいきましょう。


                     このメッセージは2023.1.22のものです。