キリスト者の交わり ガラテヤ5章25節-6章5節
パウロは御霊と歩調を合わせるように勧めたあと(参 25節)、私たちの交わりを破壊するものが何かを明らかにしています。それは「うぬぼれ」です(参 6:3)。実際よりも自分を立派だと思い込むことです(ちなみに、反対の自己卑下は実際よりも自分をだめだと思い込むことで、それは謙遜ではありません。どちらも偽りの自己評価に基づくもので、他者との関係に悪影響を及ぼします)。
「何者でもないのに、何者かであるように思う」自己欺瞞に陥らないようにするためには、自分を誰かと比較するのではなく、神の前に自分を吟味する必要があります(3,4節)。
パウロは次に互いに「挑む」ことがないように勧めています。「挑む」ことは、しばしば他の人の意見に対して攻撃的な挑戦として現れます。自分の優越性を強く確信しているので、それを誇示したくなるのです。
次の「ねたむ」(フソネオー)とは、誰かの祝福に対する否定的な感情をもつことです(「肉のわざ」のリストに「ねたみ」(名詞「フソノス」があげられていた)。それは皮肉なことばや、時には悪意ある行動となって現れ、関係を破壊してしまいます。
パウロは、交わりを築き上げるために「互いの重荷を負い合いなさい」と勧めています(2節)。その具体例として、1節ではだれかが罪を犯した場合を想定して、その罪をどのように扱うべきかを示しています。
パウロは罪に対してどうすべきか、誰がすべきか、どのようにすべきかを述べています。まず、どうすべかを示すことばは「正してあげなさい」です(1節)。「正す」(カタルティゾー)とは、「もとの状態に回復する」という意味です。網を「繕う」(マルコ1:19)ことや折れた骨を治すことに使われますが、罪を犯した人がキリストに赦しを見出すことができるようにして、その後、交わりに戻ることができるようにすることです。
誰がすべきでしょうか。それを示すことばは「御霊の人」です。自分は関係ないと考えるべきではありません。直接、関わらないとしても祈ることはできるのではないでしょうか。
どうようにすべきでしょうか。それを示すことばは「柔和な心で」です(手順については、マタイ18:15-)。誰かの罪を取り扱うことは、とてもデリケートな問題で配慮が必要です。自分も恵みによって罪赦された罪人の一人であるという自覚をもって、思いやりのある関わり方が大切です。罪を犯した人を見下したり、辱めたり、噂の種にしたり、拒絶することは愛のない行為です。もしかしたら自分もそのような罪を犯したかもしれないというへりくだった思いが必要ではないでしょうか。
「柔和」は御霊の実であり、主イエスを特徴づけるものでした(マタイ11:29)。「柔和な心で」とは、姦淫の現場で捕らえられた女性に対する主の取り扱いに見られるものではないでしょうか(参 ヨハネ11章)。
[以下の解説は、説教集を見てください。]
このメッセージは2023.2.5のものです。