主の約束 ヨハネ14章12-17節

 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えになり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます(ヨハネの福音書 14章16節)。

 14-16章は、弟子たちのもとを去ろうとしている主イエスによる告別説教です。その中で、共観福音書にはない、聖霊についての貴重な主の教えを知ることができます。主は残していこうとしている弟子たちに、わざについて、祈りにつて、聖霊についての約束をしています。

 まず、わざについて、主は「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます」(12節)と約束しています。主が行われたわざよりも「さらに大きなわざ」とはいったい何を指しているのでしょうか。主が実際にどのようなわざを行なわれたかについては四つの福音書を見ると分かります。ヨハネの福音書だけに限定しても、7つのしるし(奇蹟)をみることができます。そこに見られる主のわざ(奇蹟)と使徒の働きに見られる弟子たちのわざを比較するときに、弟子たちが主よりも質的にさらに大きな奇蹟が行なったということは確認することができません。ただ、福音が異邦人へと拡大し、大勢の人々が救いに導かれている様子をみることができます(参 2:41,47,4:4,5:14)。主が地上を歩んでおられたとき、その活動範囲はほとんどパレスチナに限られていました。しかし、弟子たちの活動の場が異邦人の世界へと拡大していく中で、大きな霊的な収穫がもたらされているのを見るときに、主の約束された「さらに大きなわざ」とは、影響力の広がりという意味だと考えられます。主は弟子たちが「さらに大きなわざ」を行なう理由として「わたしがわが父のもとに行くからです」と述べています。主が救いの御業(十字架)を成し遂げ、昇天された後に、約束の聖霊を遣わされることによって(ヨハネ15:6)、それが可能となったということが分かります(使徒1:8、Ⅰコリント2:4)。

 祈りについて、主は「わたしの名によって、求めることは何でもそれをしてあげます」と、約束しています。「わたしの名によって求める」ことについての言及は他にもありますが、そこでも「すべて」(15:16)、「何でも」(16:23)ということばで答えが約束されています。そこで「何でも」と答えが約束されている「わたしの名によって」求めるということの意味は何なのでしょうか。それは祈りの内容が「主の意志や目的にかなったものである」ということです。だれでも自分が同意しないであろうことに自分の名が用いられるなら不快でしょう。私たちが主の御名によって祈るということは、その祈りが主のみこころにかなったものであるということを意味しています。それで「何でも」という約束がなされているのです(参 Ⅰヨハネ5:14)。利己的な祈りを続けながら(参 ヤコブ4:3)、なぜ主は私の祈りに少しも答えてくださらないのかと落胆しているなら、主の御名によって主が望まれていないことを求めているかどうか考えてみる必要があるでしょう。そして、祈りの目的はその答えが与えられることを通して神に栄光が帰されることであることを覚える必要があるでしょう。

 聖霊については(14:26)、「もうひとりの助け主」の派遣が約束されています。「助け主」と訳されているのは「パラクレートス」という言葉です。語源的には「そばに立つべく呼ばれた者」を意味し、法廷で弁護するために呼ばれた人を指して使われました。ヨハネの手紙第一2章1節では、この語がキリストを指して用いられ「とりなしてくださる方」と訳されています。主は「もう一人の」という言葉によって、聖霊が人格をもつご自身と同じような方であることを明らかにしています。主は弟子たちと「ともに」歩まれましたが、聖霊は信じる者の「うちに」永続的(「いつまでも」)に住まわれて、キリストが昇天した後の働きを継続されるのです。

 旧約時代においても聖霊は、もちろん働いておられましたが、それは特別な目的のためにある人々に対してでした。しかし今日、主の約束は成就して、キリストを信じるすべて者のうちに住まわれ(ローマ8:9)、人々を教え、導き、その人々のうちに御霊の実を結ばせてくださろうとしています(ガラテヤ5:22-)。主は何とすばらしい約束を実現してくださっていることでしょう。

この礼拝メッセージは2020.1.19 のものです。