赦された女の信仰 ルカ7章36-50節

 イエスは彼女に言われた。「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(ルカの福音書7章50節)



 新約聖書には、主に香油を注いだ二人の女性が登場します。ひとりはベタニアのマリア(ヨハネ12:1-、マルコ14:3-)、もう一人は今回とりあげようとしている匿名の女性です。

 主がパリサイ人シモンの家に食事に招かれた時のことです。その町で「罪深い女」として知られていたひとりの女性が入って来て、主の御足を涙でぬらしたあと髪で拭い、口づけし、さらには持って来た香油を主の御足に塗りました。それを傍で見ていたシモンは、主が彼女の行為を受け入れ、そのままにさせていることが理解できませんでした。主がもし預言者であるなら彼女の素性がわかるはずだと、批判的な思いで見ていました。主は彼の思いを見抜かれ、「二人の債務者のたとえ」を話されました。金貸しが二人の債務者(一人は五百デナリ、もう一人は五十デナリ)をあわれんで債務を帳消しにしたという短い話です。その話をされた後、主はシモンに「二人のうちどちらが、金貸しをより多く愛するようになるでしょうか」と尋ねられ、シモンから「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」との答えを引き出されました。主は彼から引き出された答えをもって、彼女の行為をなぜそのままにさせているのか、説明しようとされました。

 罪深い女として知られていた女性は、主から「あなたの罪は赦されています」(48節)、さらには「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」(50節)との言葉を頂いています。主は「あなたの信仰が」と言っておられますが、彼女の信仰はどのような点に見出すことができるでしょうか。

 まず、歓迎されるはずのないパリサイ人シモンの家に行ったことに見出すことができます。彼女は町の人たちから自分がどのように見られていたかを知っていました。殊にパリサイ人からは毛嫌いされていることはよく分かっていました。だれでも拒絶されると分かっているところには行きたくないでしょう。彼女が勇気を振り絞ってシモンの家に行くためには、改めて自らの罪に向き合う覚悟も必要だったのではないでしょうか。

 次に、自分のような罪深い者でも赦し受け入れてくださると、主のもとにやって来たことに見出すことできます。彼女は主を、罪を赦す権威をもった方であり、なおかつ、あわれみ深い方であるとの信仰をもって主の御足に近づいたのです。そして、彼女は主が信じたとおりの方であることを、自分のすることを受け入れてくださることによって体験したのです。

 最後に、主に対して表された愛の行為に見出すことができます。主はシモンからより多くを帳消しにしてもらったほうが金貸しを愛するようになる、との答えを引き出され、「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われました。罪深い女とシモンの主に対する態度の違い(44-46節)は、多くの罪が赦されたことを知る者と赦されるべき罪などほとんどないと考えている者との罪意識の違いによっています(たとえに登場する五百デナリの債務者は女性を、五十デナリの債務者はシモンを表していて、債務の額の違いは、彼らの実際の罪深さではなく、彼らの罪の自覚を示している)。

 だれでも罪の赦しを受けるためには、赦しを必要としている罪人であること、まだどんな行いも罪の赦しを得るには不十分であることとを認め、罪を赦す権威をもった方(参 ルカ5:24)のもとへ行く必要があります。そして、罪赦された者は、主から「安心して行きなさい」との御声を聞き、主の愛に応える新しい歩みへと踏み出していくのです。

         このメッセージは2021.5.9(母の日)のものです。