パウロのとりなし ピレモン8-20節

 

 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです(ピレモン10節)。



 「ピレモンへの手紙」は、パウロが逃亡奴隷であるオネシモをその主人であるピレモンのもとへと送り返すにあたってのとりなしの手紙です。逃亡奴隷が発見されて主人のもとに送り返されるなら、どんな重い処罰が彼を待ち受けていたことでしょう。パウロは慎重に言葉を選びながらとりなしをしています。彼のとりなしからどのようなことが分かるでしょうか。

まず、パウロはピレモンを力で無理やりに従わせようとはせず、へりくだりと配慮をもって依頼しているということです(9節「懇願します」10節「お願いしたい」)。パウロはキリストの使徒であり、ピレモンの霊的な師でもあります。パウロは権威をもって命じ、ピレモンを服従させることができると思っていますがそうしません。パウロは手紙の序文でピレモンの愛を評価していますが、キリストにある彼の愛に基づいて依頼しているのです(9節「愛のゆえに」)。

 次にパウロはオネシモがどのように変わり、自分にとってどのような存在になっているか(12節「私の心そのもの」)、そのことをもってピレモンへの推薦状としているということです。オネシモとは「有益な者」という意味です(欄外注)。しかし、その意味とは逆にオネシモは主人にとって役に立たない無益な存在でしかありませんでした。そのような彼が獄中のパウロのもとへと導かれ、パウロの語った福音を通して霊的に誕生したのです(10節「獄中で生んだわが子」)。パウロは自分にとってだけでなくピレモンにとっても彼が「役に立つ者」へと変えられたことを証しし、引き続き自分のそばで仕えてもらいたいと考えたほどであることを述べています。

 また、パウロは福音によってオネシモが、自分にとってもピレモンにとっても主にある「愛する兄弟」となったことを強調しています(16節)。もちろん、パウロはオネシモが福音を信じたことによってピレモンの奴隷ではもはやなくなったと言っているのではありません。以前の主従関係を超えた新しい関係にあることを示し、彼を赦して「私を迎えるようにオネシモを迎えてください」(17節)と、とりなしているのです。

 次に、パウロは奴隷の逃亡という損失の背後に神のご計画(「・・・は~のためであった」)があったのではないかと示唆しているということです(15節)。役に立たない者の一時的な損失は、役に立つ者として永久に取り戻すためではなかったかと。人間的には、オネシモの行為は主人への反抗以外の何ものでもなかったでしょう。しかし、パウロは「離された」と表現し、そこに神の摂理かあったのではないかとしています。彼は「おそらく・・・であったのでしょう」と慎重に断定することを避けています。期待しないことが起こると、なぜこんなことが起こるのかと落ち込み、不信仰になりがちです。損失や挫折、試練は誰にとってもうれしいものではないでしょう。しかし、そのような事をも神が益に変えてくださるという視点は大切ではないでしょうか(参 ローマ8:28,創世45:4-8,50:26)。

 最後に、パウロは「愛する兄弟」であるオネシモのために犠牲をいとわないことを表明しています。オネシモがピレモンに何かの損害を与え、負債を負っているなら個人的に償うことをこの手紙で保証しています(19節)。パウロのとりなしは単に言葉だけによるものでないことがわかります。パウロがオネシモのためにしようしていることは、主が私たち罪人のために実際にしてくださったことに他なりません。そして、その主の犠牲こそ、お互いを「愛する兄弟」とする関係を成り立たせているのです。


                    このメッセージは2022.1.2のものです。