思慮のない勅令 エステル記1章1-22節

 「王が出される詔勅がこの大きな王国の隅々まで告げ知らされれば、女たちは、身分の高い者から低い者に至るまでみな、自分の夫を敬うようになるでしょう。」(エステ記記1章20節)

 この1章には三回「宴会を催した」(3,5,9節)とのことばが出て来ます。そして、問題は三回目の王妃主催の宴会において起こりました。王妃が「王の命令に従わなかった」(15節)というのです。このことをきっかけとして王の勅令が発布されました。この勅令が「思慮のない勅令」であったということを、二つの点からお話したいと思っています。

 一つ目は、勅令が発布される背景からです。王妃ワシュティが王の命令に従わなかった理由が何であるかは、エステル記の記者は私たちに明らかにしていません(記者は王妃の不従順を肯定も否定もしていないので、私たちは彼女の態度についての正確な評価はできないことを、前もって言わなければなりませんが)、記者は彼女の従わなかった理由よりも、法令が発布される背景、つまり王の酔い(10節)と怒り(12節)に視点をおいているように思われます。もし、王妃の不従順に正当な理由があったなら、王は酔いによって王妃に非常識な要求をしたとも考えられるのではないでしょうか。なぜなら、酔ったときに、人は普通ならしないような言動をしてしまうからです(箴言23:29-35、31:4、1ペテロ4:3)。そして、強い「怒り」は、さらに思慮を失わせ、冷静な判断から人を遠ざけてしまいます(参 箴言12:16)。

 さらに、今回の法令の発布の背景には、側近たちの思惑が働いているように思えます。メムカンの助言(問題を誇張して、勅令の発布まで助言している)は、面目をつぶされた王の怒りの矛を収め、王のご機嫌を取ろうとする思惑があったのでは、と考えるのは考えすぎでしょうか。絶対的な権力者の思いを忖度し、その権力者にすり寄り、取り入ろうとする者たちに、王(首相)が誘導されて思慮のない政策を実行してしまうことは、いつの時代にも、どこの国にもあることではないでしょうか。

 二つ目は、勅令の内容そのものからです。夫は妻からの本当の尊敬や従順を、命令によって引き出すことはできないからです。妻に尊敬や従順を求めている点では、メムカンの助言(1:20)と新約聖書の勧め(エペソ5:22,33)は一致しています。しかし、それをどのように達成するかについては全く対照的です。メムカンの助言は、それを法の強制によって達成させようとしています。しかし、エペソ人への手紙では、夫の愛に対する妻の応答によってそれを達成しようとしているということです(エペソ5:21では、「従う」ことは妻にだけではなく、「互いに」と夫と妻の両者に命じられている)。

 夫が妻に「俺に従え!」と命じることによって、妻からの本当の尊敬や従順を得られると思っているならそれは愚かではないでしょうか。私たちの主イエスは、私たちに従順を命じられています。しかし、その主はその命令に先立ち、私たちのためにいのちを捨てて愛してくださったことを忘れてはなりません。一方的に「俺の言うことを聞けないのか?」と妻をなじっている夫と何とかけ離れていることでしょう。

 夫が妻から尊敬や従順を得たいと思うなら、強制によってではなく、キリストが教会を愛して教会のためにいのちをささげられたように妻を愛する必要があります(エペソ5:25)。夫婦関係に限定しなくても、自分のことを本当に愛して、思いやってくれている者に対して、私たちは「この人のためなら」という思いになるのではないでしょうか。


                        このメッセージは2021.8.29のものです。