エステル 孤児から王妃へ エステル記2章1-23節

 王はほかのどの女よりもエステルを愛した。・・・王は王冠を彼女の頭に置き、ワシュティの代わりに彼女を王妃とした。エステル2章17節

 1章には、三回「宴会を催した」との言葉がありましたが、この2章にもその言葉が出てきます(18節)。今回の宴会はエステルが王妃となったことを祝うものです。彼女が王妃になったのは王の「治世の七年」(16節)のことで、ワシュティが退位させられてから4年の時が経過しています。この箇所からどのようなことを見出すことができるでしょうか。

 一つ目は、異教社会の中で神の民としてどのように生きるべきか、ということを考えさせられるということです。エステルは養父モルデカイの命令に従って、自分の生まれや自分の民族を明らかにしませんでした(10,20節)。その理由は明らかにされていませんが、異国の地で生きるユダヤ人に対する偏見やねたみがあったからでしょう。モルデカイ自身は自分が「ユダヤ人」であることを隠してはいないので(3:4)、養女エステルのことを思ってのことだったと思われます。

 バビロンへと捕囚となったダニエルたちと比較して、エステルやモルデカイの姿勢を疑問視する人たちがいるかもしれません。第三者が、彼らはああすべきだった、こうすべきではなった、と批判することは簡単でしょう。だからといって、今日の私たちが異教社会に同調し、自分を隠して生きることをエステルたちの例から正当化できると言っているわけではありません。人を恐れずに、この世と調子を合わせることなく(ローマ12:2)、主を証しすることを恥じない歩みをするべきでしょう(Ⅱテモテ1:8)。しかし、そのためには、まず自分が異教社会で神の民としてどのように生きようとしているか、問いかけることが必要ではないでしょうか。

 二つ目は、女性に求められている美しさとは何だろうか、ということです。エステルは王妃候補として集められた容姿端麗な女たちの一人です(2,7節)。彼女は宦官「ヘガイ」をはじめとして「彼女を見るすべての者」、「王」から「好意」を受けたとあります(9,15,17節)。そこには単なる外見の美しさのみならず、内面の美しさという魅力もあったのではないでしょうか。エステルは王のところに入るときには、「願うものはみな与えられて」行くことができましたが(13節)、「ヘガイの勧めたもののほかは、何一つ求め」ませんでした(15節)。そこには彼女の慎ましさ(自制心)というものが見られるように思います。また、自分の養父であるモルデカイの命令を守って、自分の生まれや民族のことを明かさなかったところには、彼女の従順さや思慮深さというものを読み取ることができるのではないでしょうか(10,20節 参 伝道者3:7)。

 ペルシア帝国の時代も今日も外見の魅力に価値観をおく社会に私たちは生きていますが、聖書は外見でなく内面の美しさに価値をおいています(参Ⅰテモテ2:9-10,Ⅰペテロ3:3-4,箴言31:30)。外見の美しさはお金をかけたり、短い期間で生み出せるかもしれませんが、内面の美しさはすぐに養うことができるものではありません。

 女性だけでなく男性も外見を整えるために鏡に向かいます。鏡は外見を映し出しますが、心の中までは映し出しません。私たちが抱える心の醜さを映し出すものは、みことばという鏡です。神はみことばという鏡によって私たちの汚れた心に向き合わせ、御霊の働きによって私たちの内面からキリストに似た者と変えて行くために働かれます。内面を磨くために、しっかりとみことばに向き合い、御霊によって歩むことが求められているのです(ガラテヤ5:16,22,23)。


                         このメッセージは2021.9.5のものです。