いちじくの木と宮 マルコ11章1-21節

 主イエスと弟子たちは目的地であるエルサレムに到着され、宮に入られます(11節)。マルコはガリラヤ宣教を後にして、最初のエルサレム行きであるかのように記していますが(参 ヨハネ2:13,5:1,10:22)、実際はそうではありません。

 主のエルサレム入城は「日曜日」(Palm Sunday)の出来事で、この日に始まる一週間のことを「受難週」(Passion Week)と呼んでいます。マルコはその福音書の約三分の一を受難週にさいていますが(マルコだけではないが、ヨハネに至っては二分の一)、そのことは主の生涯における十字架の死をいかに重要視しているかがわかります。

 

 今回の箇所は三つに分けることができます。1-11節には主イエスのエルサレム入城の出来事が、15-18節には「宮きよめ」と呼ばれている出来事が、そして、その出来事を挟むかたちで、12-14節と20-21節には実のなかったいちじくの木のことが記されています。

→[主のエルサレム入城については説教集を見てください]

 翌日、主が宮へと向かう途上で、葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、実を期待して近づかれましたが、実はありませんでした(13節)。それで、主はその木をのろうかのような言葉を発せられました(14節)。もし「いちじくのなる季節ではなかった」という言葉がなかったなら、あまり問題視されることはなかったかもしれません。実のなる季節ではないのに実を期待する主に対して、いちじくの木に同情して非難する人もいることでしょう。主は空腹のために、そのいらだちをいちじくの木にぶつけてしまったということなのでしょうか。

 翌日、その木が「根元から枯れていた」ことを弟子たちは発見し、それをペテロが主に報告しています(20-21節)。主は弟子たちにいちじくの木が枯れたことの意味を明らかにしていませんが、「宮きよめ」の出来事を挟んでいることから、いちじくの木が枯れたことは、見かけとは裏腹に内実のない神殿に対する神のさばきを警告し、象徴するものであったと考えていいのでしょう(参 13:1)。

 主は宮に入られると、その中で売り買いしている者たちを追い出し、「両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒」すという荒っぽい行動で義憤を露わにしておられます。そして、ご自身の行動を旧約聖書を引用して(イザヤ56:7,エレミヤ7:11)正当化し、本来「あらゆる民の祈りの家」であるべき宮を『強盗の巣』(参 ヨハネ2:16「商売の家」)にしていると、強く宗教指導者たちを非難しました。「強盗の巣」という言葉は、信仰を口実に不当な利益を得ているという意味ばかりではなく、「巣」という言葉に焦点をあてると、宮がそのような者たちの隠れ家になっているという意味を読みとることができます。いずれにしても、異邦人たちの庭は静かに落ち着いて祈れる場ではなくなっていたのです。

 主の行動は宗教指導者たちの権威をあからさまに否定するものであり、彼らは主に対する殺害計画を立て始めます(参 3:6)。しかし、主の群衆に対する影響力を恐れて手出しをすることはできませんでした(18節)。

 主は葉の茂ったいちじくの木に実を期待されました。残念ながらそこには実はありませんでした。主はあるとき「実を結ばないいちじくの木のたとえ」(ルカ13:6-9)を話されました。果樹のオーナーがその実を期待することは当然のことです。主も私たちに見かけではなく実を結ぶことを期待しておられます(ヨハネ15:16)。主が望まれる実を結ぶために主にしっかりとどまりましょう(参 ヨハネ15:4、ガラテヤ5:22-23)。


              このメッセージは2024.6.2のものです。